【3・11特集】それぞれの10年 自身の限界と向き合いつつ 津波の被災地 仙台・荒浜で 鈴木真理

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 未曾有の大災害から10年。あの日以来、大切な家族・友人、住まい、生業を失い、今も不自由な避難生活を続ける人々がいる。地道な支援の陰には、メディアの光も当たらない名もなきボランティアの尊い働きがあった。震災後の残された課題を改めて振り返る。

鈴木真理(介護福祉士、被災支援ボランティア)

2011年3月11日に仙台で被災し、教会を拠点に全国から寄せられた支援物資を近所へ配布した。5月の連休明けからは、日本国際飢餓対策機構(現・ハンガーゼロ)の倉庫で物資配給のボランティアを始める。倉庫での配給活動が11月に終了し、2012年春、仙台市若林区荒浜の兼業農家を中心に、JR南小泉仮設住宅に入居した住民によって立ち上げられた株式会社「荒浜アグリパートナーズ」に協力することとなる。茨城県の方から被災者のためにプレハブが寄贈されたのがきっかけだった。

「荒浜アグリパートナーズ」は現在、米、麦、大豆の栽培を柱に、農畜産物の生産、加工、販売に関する業務で経営しているが、震災の年は何も作付けできなかった。そのような折、津波に襲われた荒浜地区の農地でも、塩害に強い綿花なら栽培できるとして、大正紡績などアパレル関連10社が企画した「東北コットンプロジェクト」にも参加。綿花を紡績会社が買い取って綿糸に加工、アパレルメーカーが製品にして販売を始めた。今も小規模で続けているが、ボランティアによって成り立つ事業で、農家の利益を生み出すことはできておらず、当初の思惑通りには進んでいない。

同じころ、倉庫の配給活動で出会った被災者を含め6人ほどで食事をした折、「みなし仮設住宅」(民間賃貸住宅借上げ制度)では支援が薄いとの声を受けて、自助組織「若松会」が立ち上げられたことを聞いた。何かお手伝いできるか尋ねると、簡単なお茶会に始まり、昼食も提供し始めたもののその負担が大きいとのことだったので、週に一度、昼食作りを手伝うことになった=写真下。加えて、全国からの慰問の人々が出入りするたびに、その接遇のお手伝いをした。「若松会」は2018年まで活動を継続。拠点になった施設の家賃補助も終わり、コロナ禍で動けなくなったこともあり、今は同じ規模での活動はしていない。

豊かに受け取って「配る人」に
被災者と関わり続ける原動力

10年経った今は、自分の中にボランティアという自覚はなく、遠い親戚を手伝いに行っている感覚。震災後、いつも傍らにいる人たちを得たという感じ。

震災以来、考えてきたことがある。ボランティアで出会った人たちとの会話の中で想起された、ヨハネによる福音書5章の「ベトザタ」の池でイエス様と出会う病人の物語。

「さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。病人は答えた。『主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです。』イエスは言われた。『起きて、床を担いで歩きなさい。』すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」(ヨハネによる福音書5:5~9)

ずっとそこに座っていた病人とイエス様の会話がかみ合っていないように感じていた。「良くなりたいか?」と聞くイエス様に対し、聞かれた側は「はい」「いいえ」ではなく、「私を池の中に入れてくれる人がいません」と答えている。その不自然さについて、被災者との関わりの中で似た会話をしている自分に気づいた。

イエス様は問題の本質を一発で理解して問うものの、当事者は自分の問題をうまく表現できていない。実際、被災地では問題の本質を自分はなかなか理解できないし、きちんと問うことができない。問われた側としても、本当のところがうまく言語化できないもどかしさがあるし、他の被災者やボランティアの人に対する配慮もあって、正直に話せないこともある。イエス様が問題を問えるのは、その本質を理解し、解決できる権能も持っているから。そうでなければ、無責任な問いになってしまう。

日々、問題の周縁について話を聞く中で、私にあるものが何かと考えれば、被災地に住んでいて、被災者のために割ける時間だけはあるということ。被災者との関わりを続ける中でイエス様が一発で見抜いた「本質」に少しずつでも気づければ、それでいいのではないかと。私はイエス様ではないので、一発で解決できなくて当たり前。時間をかけて被災者を訪ね続けることを通して、限界ある自分を自覚しながら、それでもイエス様と一緒に歩き続けたい。

荒浜での綿花栽培ボランティア(2013年ごろ)

震災直後、教会に届いた支援物資の配布をしていた当初はクリスチャンや教会に来たことのある関係者が対象だった。多くの方は、「私は大丈夫。もっと困っている人に」と受け取らなかった。その方たちにしてみれば自分は何とかできるからという優しい気持ちから言われたと思うが、もう一歩踏み出して「他の人に配る」側になってくださる方はほとんどいなかった。そのことに疲れを覚えた時、ある子育て中のお母さんに、「ここでしっかり援助を受け取って、十分食べて元気になったら、今度は自ら『配る側』になってくれないか」と正直に言ってみた。すると、予想外の指摘に気づかされたような表情をされ、実際に「配る側」になってくれた。しかも私があまりコンタクトできなかった子育て現役世代にも届くように配布先が広がった。これはクリスチャンの信仰と似ている。「私は救われている」というだけでは本当に「配る人」にはなれないのではないだろうか。

「配る人」になり続けるためには、私自身がイエス様から豊かに受け取り続けなければ難しいと思う。神の救いの豊かさが分かれば、誰でも「配る人」になれる。それは配らなければという義務感ではなく、喜びを一緒に味わいたいという気持ち、そこが原動力。

ベトザタの池で見せてくださったイエス様の力と権威を、私も見たいし、知りたい。この先も、その思いが変わることはない。

すずき・まり 静岡県生まれ。祖父母や母方の兄弟が救世軍という家庭で生まれ育つ。日本ルーテル同胞教団仙台新生キリスト教会員。介護福祉士としてホームヘルパーの仕事に従事。2011年3月に自身も被災して以来、被災地で支援活動を続けている。

【3・11特集】それぞれの10年 「復興」の陰に無数の物語 被災地に残された課題 高橋拓男 2021年3月11日

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