コロナ禍と向き合う教会についての議論をフォローしながら覚えたある種の既視感、それは、日米のキリスト教会を対象に1997年と2003年の2回にわたって実施したインターネットの利用に関する調査に由来するものだった。米国の調査については前回述べたので、今回は日本基督教団に所属する1695の教会及び伝道所を対象に行った2回目の調査(有効回答数885、回収率52%、詳細は「高度情報化社会と宗教に関する基礎的研究」平成11年度~14年度科学研究費補助金基盤研究)の結果紹介から始める。
昨今の議論との関連でとりわけ興味深いのは、インターネットの利用に否定的な理由である。「設備・資力不足」「人材不足」「高齢化・健康上の理由」「メンテナンスの困難」などの他に「神学的理由」を挙げる回答が相当数あった。主なものを以下に引用する。
「福音は人格と人格とのつながりで伝達されます。それがITで可能か?」
「福音は顔と顔を合わせて人格的に関わるのでなければならない」
「伝道は地域に根差したFace to Faceなもの」
「現実の生身の人間との交わりに重きを置くべきである」
「人と人とが顔を合わせて人間関係を作る中で宣教を考え、社会的課題を担っていきたい」
「会って直接話すことが、教会の働きだと思う」
以上のような声は、前回紹介したアメリカの教会の調査結果でも示されたこと、すなわち福音宣教は現実の教会の礼拝で対面でこそなされるのであってインターネットで代替することは不可能という声と軌を一にする。
この調査ではまた教会のインターネット利用における地域差・経済格差の問題も浮き彫りになった。東京や神奈川では「利用している」「利用予定」の教会が7割を超えたが、九州教区では約半数、沖縄教区では8割以上が「利用予定なし」と回答していた。またすでに利用している教会の半数が年間予算の経常収入が1000万円以上の教会であったのに対し、利用予定なしと回答した教会の半数以上が経常収入500万円以下の教会であった。この調査から17年を経た今日、ことネット利用に関する限り状況は相当改善されていると想像されるが、コロナ禍への対応におけるさまざまな格差の問題は今なお深刻である。
以上、インターネットの利用に関して教会が直面する二つの課題、神学的課題と格差の課題は最新号『ミニストリー』誌(Vol.45)の特集記事「コロナ禍と向き合う――新しい教会様式の模索」でも示されている。
朝岡勝氏(日本同盟基督教団牧師)は、コロナ禍により「教会が集まって献げる公同の礼拝を休止するという選択」が、いわゆる「アディアフォラ」(命じられても禁じられてもいないこと)なのか、それとも「信仰告白の事態」に関わることかの吟味が必要と述べているが、ネットなどを活用した遠隔礼拝の是非についても同じ問いが突き付けられている。
中道基夫氏(関西学院大教授)は、オンライン礼拝の経験により「教会に集うということ、教会の共同性というものが弱められたのではないか」と問い、コロナ禍により「これまで築いてきた教会論、礼拝論はリセットされたのではないだろうか」とさえ言う。
藤原佐和子氏(アジア・キリスト教協議会常議員)が紹介している米国のキャンベル氏提案によるオンライン教会の三つのかたち(①従来の礼拝の再現型、②Twitterなどによるトークショウ形式、③SNS利用による「なごやかな談話」モデル)は、「リセット」後の礼拝のあり方の可能性を示している。(つづく)
川島堅二(東北学院大学教授)
かわしま・けんじ 1958年東京生まれ。東京神学大学、東京大学大学院、ドイツ・キール大学で神学、宗教学を学ぶ。博士(文学)、日本基督教団正教師。10年間の牧会生活を経て、恵泉女学園大学教授・学長・法人理事、農村伝道神学校教師などを歴任。