わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
ルカ1章43節(参照箇所同書1:39〜45)
聖母訪問としてよく知られたこの出来事は、共に胎の実を宿した女たちの喜びの分かち合いであると同時に、マリアの胎を借りて、救い主がエリザベトのところにやっておいでになったことでもあります。救い主の方から訪ねておいでになった、この出来事は、わたしたちの方から救い主を探し求めるのでなく、救い主の方から、出会いを求めておいでになったことを意味します。
マリアがエリザベトに挨拶をしたとき、エリザベトの「胎内の子がおどった」(40節)とあります。これは言葉では尽くせない、エリザベトの喜びの応答でありました。
教会では、訪問を大切な伝道や牧会の手段として用いてきました。信仰者が訪問を試みるとき、単に安否を問うことに終わらないことをこの出来事は教えています。信仰者の訪問は神の言葉を伴うのであり、聖霊の導きによる祈りがあります。それは救い主もまた訪問に加わっていてくださると信じるに十分なことであって、人の言葉を越えた喜びが返ってくることを知ってよいのではないでしょうか。インターネットや携帯電話といった便利グッズもさることながら、訪問という手段の中に見逃せない賜物があることを再発見する出来事がここにあります。