悲しんでいるようで、常に喜び、物ごいのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。
コリントの信徒への手紙二6章10節(参照箇所同書6章1〜10節)
たしかに悲しいときは、悲しいのです。悲しみを笑いに変えることなど、無理なことです。そこを信仰は変えます。悲しみの向こう側に、あのお方がおいでになることを教えるからです。だから今は悲しみに暮れていても、、あのお方の側には悲しみを越える喜びがあることを知っているのです。
赤貧(せきひん)洗うが如き生活であっても信仰者には金銭で買えない、恵みの豊かさがあるのです。恵みの豊かさは、金銭がなければないほど、生活の至るところによく見えるものです。信仰者とは、不思議な恵みの豊かさの持ち主であることを、あのお方が保証してくださいます。
置かれた状況の中で、財産も能力もしかとあるわけではないのだからと自分に言い聞かせなければならないときがありましょう。だからといって、悔しがるだけが許された生きかたなのでしょうか。自分に属するものが何もない無一物とは、神に属するものはすべてを入れることができる世界を持つことに他なりません。
パウロは、こうした生きかたを自らの体験を通して得たのでしょう。人は信仰によって成熟した生き方を獲得できるとのモデルがここにあります。