わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのでなく、信仰によると考えるからです。
ローマの信徒への手紙3章28節(参照箇所同書3章21〜31節)
「義」とは、神の正しさを意味するもので、神は御自身の御心に表わされます。したがって、「人が義とされるのは」というのは、神の御心が人に現れ、神と人の関係が正しく保たれることを意味しています。創世記に戻れば、人は造られたままの状態であることをよしとせずに、神との関係を断って自ら世界の主人公にあるとしている、そこに義の対極としての罪があるというわけです。
人間が世界の主人公となったことで、今日いろいろな問題が起っていることを思えば、パウロがここで主張する信仰の命題は、単にキリスト教という宗教の信仰問題というより、もはや人間がこの世界でどう生きるかに関わる問題を提起していることになります。
パウロは言います。「人が義とされるのは律法の行いによるのでなく、信仰による」。律法の行いとは、人間が自分の力を行使することですから、いわば自分が主人公というわけです。パウロは、それでは「義」とされないと言っているのです。「義」とされるにはキリストを信じる他はない、キリストは人間に代わって「義」を成し遂げられたからであると宣言しているのです。
ここで人は自分を主人公にするか、キリストを信じるかの選択に迫られます。