わたしにとって、驚くべきことが三つ、知りえぬことが四つ。天にある鷲の道、岩の上にある蛇の道、大海の中の船の道、男がおとめに向かう道。
箴言30章18〜19節(参考箇所同書30章18〜33節)
ここにはヤケの子アグルの言葉とありますが、アグルは神の知恵を探ったが結局は知ることができず、自分の知恵を捨てた人でありました。
人は分からないことがあると何とかして分かろうとするものです。アグルもまた神について知ろうと試みましたが、疲れ果てたとあります(1節)。疲れ果てるとは、人間の知恵が働かなくなったことを意味します。人の知恵が働かないので,神の知恵が働くのです。そもそも聖書は人の知恵で説明されることを求めません。神がどのように人間に働かれたかを福音として知らせることを主眼目とします。神がされることを分かるように説明することができれば、もはやそこには神の知恵は働きません。人間の知恵が働いているだけです。
洗礼を受けようかどうしようかと迷っている人に、どうして洗礼を受けないのですかと聞くと、大抵の人から「まだ聖書がよく分かりませんから」という返事が返ってきます。しかし分かって洗礼を受ける人はほとんでいないでしょう。分かって洗礼を受けると、分かったことしか信じないクリスチャンができてしまうものです。分からないから洗礼を受けるのです。なぜなら洗礼は信仰を頭でなく体で知ることだからです。