涙と共に種を幕人は、喜びの歌と共に刈り入れる。
詩編126編5節(参考箇所詩編126編1〜6節)
イスラエルの民が国家的な苦難として経験したバビロン捕囚から解放されてエルサレムへ帰還した出来事が、この詩編の作者の脳裏に浮かんでいたと思われます。
人は思いがけない出来事に遭遇し、一切を失うなどの経験をするとき、それまで孜々営々と築き上げてきた人生は一体何であったのかと空しさを覚えるものです。真面目に、正直に生きる者は、人生の営みで損をするようにできているのでしょうか。バビロンに捕囚の身となったイスラエルの民たちの姿をそこに重ねて見ようとする作者の思いが伝わってきます。
正しいことは、かならず正しいとされ、誠実さが裏切られることなく、善は善、悪は悪とされることがなければ、この世から正直者は消えてしまうでしょう。聖書は、正直者が損をする、早起きが三文の得とならず、悪が悪とならず善が善とならないかのような、この世の営みに付き纏う不条理や矛盾があっても、終わりの日にはかならず修復され完成されるとの信仰を伝えるものです。
それこそが終末信仰であります。作者は、そのことを固く信じていました。その信仰の表明を「涙と共に種を幕人は、喜びの歌と共に刈り入れる」という言葉に託しているのです。