味わい、見よ、主の恵み深さを。
詩編34編9節(参考箇所詩編34編1〜23節)
キリスト教信仰は御利益信仰ではないのだから、家内安全商売繁盛のような現世御利益とは関係ないと思いながらも、身内の不幸や思いがけない災難に出会うと、折角信仰を持っているのに、これではなんのための信仰かと不信の念を抱くことがなきにしもあらずです。信仰は良いものをもたらすという思いは、どこか心の片隅にあるものです。
ルターは、「信仰とは、神をして神たらしめることである」と申しました。神がいますので神を信じるのであって、わたしが主役になって神を信じるというのは、真の信仰ではないといっているのです。神をして神たらしめるとは、自己を中心とする信仰を否定するものです。パウロの言葉を借りると「我らは神の中に生き、動き、存在する」(使徒言行録17章28節)ことを信じることです。信仰とは神が主役であることを信じることであって、わたしはそのお方の働きを受ける土の器(コリント二、4章7節)に過ぎません。
土の器に受けたものが恵みであります。土の器だからこそ何を受けたが一層よく分かります。まさに恵みを「味わい、見る」ことができるのであります。