三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マルコ15章34節(参考聖書箇所同書15章33-41節)
主イエスは神の子であり、その本性において神と等しい方です。このお方が「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。神が神を見捨てるということに他なりません。主がこのようなところに身を置かれたということは、わたしたちにとって大きな意味があります。
わたしたちは、「なぜ、こんなことが・・・」と問いたくなる出来事に遭遇することは少なからずあることです。人はこうした出来事に出会うと、さまざまな答えを用意します。しかしいざ自分がその当事者となって不条理の最中に身を置くときには答えはどこにもなく、ただ「なぜ」という問いが残るだけです。
十字架の出来事はこの問い答えるものです。それは「なぜ」と問う問いを主御自身が共有してくださる出来事だからです。問う者といっしょに同じ問いを共有してくださる、そのお方がおいでになることで、答えがないところを生きることができる、十字架の主は不条理を生き抜くためになくてならぬお方なのです。
それはまた、不条理の極みにキリストと出合うことができるということであって、これこそ究極の慰めというべきです。