イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。
マタイ26章15節(参考聖書箇所同書26章14?16節)
聖書の中の悪役として登場するイスカリオテのユダは、信仰の世界にはあってならない存在であるかのような印象を与えます。しかし彼の登場は、わたしたちもまた一人のイスカリオテのユダとなり得ることを教えるものでもあります。もっともらしく信仰者ぶってはいても、心の内面では、信仰か、銀貨三〇枚かと比べている、わたしがいないとはかぎらないのです。それはなにも明白に主を裏切って、席を蹴って信仰から遠ざかるといったこととはかぎりません。
ユダは、主を見ながら、信仰の世界に生きようか、それともこの世の価値を取ろうかと、迷ったのです。あげくに彼が選んだのは、金銭という典型的なこの世の価値でした。
しかしこれはなにも彼だけの問題ではありません。わたしたちもつい信仰の世界にいながら、得か損かという選択をしていることがあります。たとえば信仰を持ったけれども、ちっともいいことがない、と言っているかもしれません。神さまは損なことばかり押し付けなさるとぼやいているかもしれません。小さなイスカリオテのユダはいつでも、わたしたちの心の中に顔を出すものであります。