わたしは道であり、真理であり、命である。
ヨハネ14章6節(参考聖書箇所同書14章1-14節)
トマスは尋ねます。「主よ、どこへ行かれるかのか、わたしたちには分かりません」。教えてくださいとトマスは言っているのです。主は偉大なるお方であって、その方が教えてくださるようにするのが弟子である、そう思ったのです。主は教えてくださるお方、そのような目で主イエスを見るのは、なにもトマスだけではないでしょう。わたしたちもまた、イエスから教えていただきたいと思うのが当たり前ではないかと考えてしまいます。
しかし教える者と教えられる者の関係は、主イエスとわたしたちの間にはありません。主が「道である」と言われるときは、わたしたちは主の上を歩いているのであり、主が「真理である」と言われるときは、主を目指しているのであり、主が「命である」と言われるときは、キリストの命を生きているわたしがいるのです。
ルターは「信仰とはキリストを信仰の対象として信じることではない。信仰とはキリストがわたしの中に生きて働くことである」と申しました。信仰者であるとは、そのような主との生きた関係そのものを生きる者であります。