神学的議論の旅の出発点として
〈評者〉阿部善彦
最近、教父学にかんする著作の刊行が続いている。そのなかで本書の際立った特徴は教父たちの思想の紹介というよりも、教父たちが文字通りその身を投げうって取り組んだ問題の探究の内がわに読者を引き込むことを目指していることである。教父たちが探究した問題とは、つまるところ、キリスト教とは何か、という問題である。そのような問題理解は、本書のタイトルとサブタイトルに存分に示されていよう。
しかし、キリスト教とは何か、とはいかなる問題なのか。本書が示すように「キリスト教の生い立ち」から見れば、それは、イエス・キリストはいかなる者であるのかという問いに直結する。それは、教父たち自身が自らの信において受け取っている真理であるイエス・キリストに全身全霊で肉迫し、それを言い表し、他者とともに分かち合おうとした、その根本的な探究態度に裏づけられた問いである。それゆえに、その探究は、また、キリスト教とは何で無いのか、イエス・キリストはいかなる者で無いのか、という問いと密接する。それは、自らのうちに抱かれた信が受けとっているものが真実に何であるのかを、人間的理解の限界の自覚に立って虚心に見つめ直す探究態度にもとづく問いであり、そこに人間自身が生み出す数々の疑似的神理解との厳しい対決が生じる。 続きを土橋茂樹著 教父哲学で読み解くキリスト教(阿部善彦)の続きを「本のひろば」で見る
書き手 :阿部善彦
あべ・よしひこ=立教大学教授