教理も死も超えて(上) 【アメリカのコロナ病棟から 関野和寛のゴッドブレス】第12回

この日は宿直当番として一晩病院で過ごす夜であった。人の生死の時は誰にも測れない。病院聖職者、チャプレンは交代で24時間、全860床の患者さんに寄り添うのだ。その夜、突如母子病棟からポケベルで呼び出され、急いでナースステーションに向かう。

走っても10分あるその道中で、さまざまな状況を想定する。母子病棟からのチャプレン要請はおおよそ死産や流産など、究極的に悲しい出来事があった時だ。他者に理解などできるはずもない悲しみを前に、私にはかける言葉も祈りも何もないのだ。恐れと緊張で波打つ胸に手を当て、ナースステーションに到着する。

すると、担当ナースはこう言った。「今晩、2XX室のお母さんが赤ちゃんを出産します。胎児には重篤な病があり、死産か、もし命があって産まれても何日持つか分かりません。両親が赤ちゃんのための洗礼式を希望しています。出産のタイミングでポケベルを鳴らしますので、準備をして待機をお願いいたします」

@Hidemi Ogata

洗礼とはキリストを信じる者の額に水を注ぎ、罪の赦(ゆる)しと永遠の命の約束を与える、キリスト教界の一番大切な儀式だ。現在のコロナパンデックのように中世ヨーロッパで黒死病が大流行し、国民の3分の1近くが命を落とした時代があった。当時、多くの赤子が産まれてすぐに洗礼を受けた。パンデミックでいつ命を落とすか分からない中で、それでも天国へ我が子が行けるという希望を持つためであった。

そのような歴史的背景は別として、キリスト教の教理では死者に洗礼を与えることはしない。洗礼はあくまでも生きている者のために行うものである。だが、この母子病棟ではこのような状況でこそ洗礼式を行っている。極限の苦しみと悲しみの中にある母親に対して、「この子は神の国に行ったのだ。そして、いつか神の国でこの子と会える」と宣言する。洗礼は最後の希望であるからだ。

これまで15年牧師をしてきたが、死者に洗礼を授けたことはないし、このような場面に立ち会ったこともない。しかし、この現実を前に「教理的にできません……」「過去にやったことがありません……」、そのような言葉は口からは出てこなかった。”I got it”(了解)とナースに返事をし、病棟を後にする。教理や過去の習慣に反するためらい、不安が心の中で渦巻き、なんとも居心地の悪い気分になってくる。歩くたびにカツカツッ冷たく音を立てる廊下を進んでいると、聖書の言葉が自分の中に響いてくる。

「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」

私は何を恐れているのか? キリスト教会の教理か、批判か? 聖書は語る。「どのような力、たとえ生や死だとしても、私たちをキリストから引き離すことはできない」と。そうだ。神が造ったその母子の魂に集中するのだ。そう私は自分に言い聞かせた。病院、聖職者、チャプレンとは過去と未来、生と死のど真ん中に立ち、必死に正解のない答えを探すのだ。(つづく)

*プライバシー保護のためにケースは再構成されています。

永谷園のお茶漬けをコロナ室で働くアメリカ人神父に食べさせてみた。

 


ロック牧師関野和寛+Anode 家庭内の虐待をテーマにした曲「Gloria 」配信開始!

空気は読まない、時代の波にも乗らない 【アメリカのコロナ病棟から 関野和寛のゴッドブレス】第1回

 






メルマガ登録

最新記事と各種お知らせをお届けします

プライバシーポリシーはこちらです

 

オンライン献金.com