この日は宿直当番として一晩病院で過ごす夜であった。人の生死の時は誰にも測れない。病院聖職者、チャプレンは交代で24時間、全860床の患者さんに寄り添うのだ。その夜、突如母子病棟からポケベルで呼び出され、急いでナースステーションに向かう。
走っても10分あるその道中で、さまざまな状況を想定する。母子病棟からのチャプレン要請はおおよそ死産や流産など、究極的に悲しい出来事があった時だ。他者に理解などできるはずもない悲しみを前に、私にはかける言葉も祈りも何もないのだ。恐れと緊張で波打つ胸に手を当て、ナースステーションに到着する。
すると、担当ナースはこう言った。「今晩、2XX室のお母さんが赤ちゃんを出産します。胎児には重篤な病があり、死産か、もし命があって産まれても何日持つか分かりません。両親が赤ちゃんのための洗礼式を希望しています。出産のタイミングでポケベルを鳴らしますので、準備をして待機をお願いいたします」
洗礼とはキリストを信じる者の額に水を注ぎ、罪の赦(ゆる)しと永遠の命の約束を与える、キリスト教界の一番大切な儀式だ。現在のコロナパンデックのように中世ヨーロッパで黒死病が大流行し、国民の3分の1近くが命を落とした時代があった。当時、多くの赤子が産まれてすぐに洗礼を受けた。パンデミックでいつ命を落とすか分からない中で、それでも天国へ我が子が行けるという希望を持つためであった。
そのような歴史的背景は別として、キリスト教の教理では死者に洗礼を与えることはしない。洗礼はあくまでも生きている者のために行うものである。だが、この母子病棟ではこのような状況でこそ洗礼式を行っている。極限の苦しみと悲しみの中にある母親に対して、「この子は神の国に行ったのだ。そして、いつか神の国でこの子と会える」と宣言する。洗礼は最後の希望であるからだ。
これまで15年牧師をしてきたが、死者に洗礼を授けたことはないし、このような場面に立ち会ったこともない。しかし、この現実を前に「教理的にできません……」「過去にやったことがありません……」、そのような言葉は口からは出てこなかった。”I got it”(了解)とナースに返事をし、病棟を後にする。教理や過去の習慣に反するためらい、不安が心の中で渦巻き、なんとも居心地の悪い気分になってくる。歩くたびにカツカツッ冷たく音を立てる廊下を進んでいると、聖書の言葉が自分の中に響いてくる。
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」
私は何を恐れているのか? キリスト教会の教理か、批判か? 聖書は語る。「どのような力、たとえ生や死だとしても、私たちをキリストから引き離すことはできない」と。そうだ。神が造ったその母子の魂に集中するのだ。そう私は自分に言い聞かせた。病院、聖職者、チャプレンとは過去と未来、生と死のど真ん中に立ち、必死に正解のない答えを探すのだ。(つづく)
*プライバシー保護のためにケースは再構成されています。
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