私の学生時代の専門は、数学でした(位相幾何学、トポロジー)。数学の世界というのは、実にフェアでした。正しいことなら、どんなに小さな声で言っても、どんなに下手な言い方をしても通った。間違っていることは、どんなに大きな声で言っても通らなかった。社会へ出て15年、いま思うことは、大きな声で強弁した者の勝ち。間違っていることでも矛盾していることでも、大きな声で言った者の勝ち。フェアじゃない世界だなあ、と思いますね。でも、それが世の中。数学の世界がフェア過ぎたのです。
私など何をやらせてもダメなので、すっかり「ダメ」のレッテルを貼られ、私の言うことならすべて却下、私の成功は忘れられ、私の失敗はどんなに小さなことでも大きく取り上げられ「やっぱりあいつには何をやらせてもダメだ!」と言われる事態になっています。レッテルを貼られるって、実に恐ろしいことです。数学の世界はそうじゃなかったなあ。
30歳のとき、大学院生をやめて中高の数学の教師になって驚いたこと。数学の教師の傲慢さ。学生時代の(数学でもキリスト教でもない)仲間が元高校の数学教師で、みんな「お山の大将」だから嫌になって辞めたと言っていました。わかるなあ。彼ら、数学のできない生徒なんて人間扱いしない。家畜扱いだもんなあ。イエスさまが家畜小屋で生まれたことを忘れてはなるまい。
大学、大学院の数学の先生は違った。みんな、とっても謙虚だった。それはそうなんですよね。常に研究の第一線にいて、目の前にはまだわかっていないことがたくさん。そして世界中の、それこそ大天才みたいな研究者も含め、たくさんの優秀な研究者との日常的な交流。日本ではいかにその道の第一人者と言われていても、謙虚な人が多くなるはずです。フェアな世界だなあ。中高の教師の井の中の蛙とはえらい違いで、それがいちばん驚いたことです。
しかも、大学院の先生方は、みんなちょっとずつ専門が違って、ちょっとでも専門が違うともう専門外でわからないから、みんな互いに尊敬し合っていた。お互いに、「あなたはそんな難しいことをやっておられるのですね」という感じでした。いい世界だなあ。
それから、「ここほれワンワン」といって、そこを掘ればお宝が出てくるわけではないので、何年かかってもウンともスンとも言わない研究者に対しても、非常に寛容だった。むしろ国が焦らせてくるので、みんなで抵抗していた。そして、10年に一度くらい、大きな結果をドン!と出す研究者もいた。私は、学問といえば数学しか知らないため、どこでもこれくらいフェアなのだと思っていましたが、だんだんもっと人間くさい面がある専門分野もけっこうあることがわかってきました。つくづく数学という分野はフェアだった。
いまの子どもを見ていると、「正解はひとつだけ病」にかかっているかのようです。小さいころからそうなんですね。マルとバツを打たれて、正解は「模範解答」として参考書の巻末に載っているもの。私は教員時代、「自分でこれが正解だ!と思ったものが正解なのだ」と強調しましたが、だれも信じてくれず、みんな参考書の巻末を信用しました。授業をよく聴きましょう。先生はしょっちゅう間違ったことを言いますよ。それどころか、教科書だって緻密に読めば間違いはある。
これは、大学院くらいの数学になると常識で、「数学の本には必ず間違いがある。その間違いを訂正しつつ読むのが正しい数学の本の読み方」と教わったものです。私の指導教官の書いた、日本語の割と入門的な本でも、細かい間違いはもちろん、全面的に書き直さなければいけないな、と思うような間違いもありました。
だいたい、世界には「正しい答えがひとつだけ」なんて、あり得ないでしょう。例えばコロナが流行って、ステイホームをするにしろ、GoToキャンペーンをやるにしろ、やめるにしろ、どれが正しい答えなのか、誰にもわからないじゃないですか。聖書だって、「正しい読み方がひとつだけ」なんていうことはあり得ないのであって、『聖書の読み方』的な本もありますがくれぐれも注意してお読みください。まずは、『聖書』そのものを読むことをお勧めします。
腹ぺこ 発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。
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