【毎月1日連載】牧会あれこれ(23)賀来周一「共にいること」

東日本大震災の直後、福島県のある教会から応援の依頼があった。教会には保育園が併設されていた。園児の家はほとんど被災している。漸く残った少人数の園児のために保育がなされてはいるが、保育者も被災していて皆どうしてよいか分からない。応援に来て貰えないかとの依頼であった。阪神淡路大震災の時は、まだ体力があって、西宮の教会に泊まり込み、24時間対応の電話相談所を開設したこともあったが、高齢となり、体力的に難しいと判断し「何としてでも行きたいけれども、年も年だし、瓦礫の片付けなどもできない。かえって足手まといで迷惑を掛けるから」と返事をしたが「先生、いるだけでいいから」と頼まれた。その声の調子からして深刻な事態がありありと分かる依頼であった。急遽、他の先生に事情を話し、その先生に行って貰えることになり、ひとまず安堵の胸をなで下ろしたのだった。人は通常でも、誰かと一緒にいたいと願うものだが、事態が危機を孕(はら)む時には、<共にいる誰か>の存在がもっとも意味のある援助となることを知らされた経験であった。今日のコロナ禍の事態は、とくにそのような仲間を必要とする。

カウンセリングの世界で<with-ness>という言葉が使われている。<共にいる>という意味である。人は生きるためには、自分にとって意味のある相手を必要とする。だが、相手との関係の質がカウンセリングの結果を左右する。場合によって、ピア・カウンセリングというグループでカウンセリングをすることもある。ピアとは、仲間のことである。しかし、ピアには、お互いに相手をよく見るという意味がある。そのような仲間がいると、生きるためのヒントや手立てを得る機会に恵まれることが多い。人にとって、そういう仲間がいると、とても助かる。持ちつ持たれつの関係と言ってよいであろうか。

そのような仲間関係は、どのような形で、この社会の中に見つかるのだろうか。多くの人が働いている会社のことを考えて見よう。会社は、社会のニーズに貢献すると共に、利潤を挙げ、また、そこで働く者の生計を保証し、事業の発展を計ることを目的とする。一般的な見方からすれば、そう見える。

通常、会社のことをCompanyというが、Companyには<共にパンを食べる仲間>という別の意味もある。つまり人は誰であれ、生きるために、共にパンを食べる仲間=Companyが大事ということである。会社は、仕事の場であると同時に生きるための仲間を発見する場でもあることをCompanyという言葉は教えている。人によっては、定年退職をした後もかつての仕事の同僚と交流を深めている人もいる。そうなると仕事上の同僚であるよりも<共にパンを食べた仲間>としてのCompanyを会社で発見したことになる。

テレビ番組を見ていると職場で昼の弁当を食べている場面が放映されることがある。午前の仕事が終わり、お昼になると互いにあれこれと話しながら弁当を食べ、互いに談笑したり、おかずを分かち合ったりして楽しい時間を過ごす。個としての自分自身が生きていることを分かち合う仲間がそこにいる。会社としてのCompanyでありつつ、同時にもう一つの仲間としてのCompanyの姿がそこに見える。

しかしながら、コロナ禍の時代に入り仲間としてのCompanyを失う人が増えてきた。会社との雇用関係を失う人はそうであろうし、テレワークという従来にはない仕事の形も出てきた。そうなると、共にパンを食べる仲間から遠くなり、孤立する。

人は、本性上<共にパンを食べる仲間>を持ちたいと願っているものだ。日常の仕事場としてのCompanyと仲間としてのCompanyの結びつきが薄らぐならば、人はこの社会のどこかに仲間としてのCompanyを探さなければならない。教会は、そのような仲間作りにもっとも相応しい受け皿であるのは確かである。知恵を振り絞り、工夫を重ねて、このコロナ禍時代に相応しい<共にパンを食べる仲間>作りはできないものであろうか。

賀来 周一

賀来 周一

1931年、福岡県生まれ。鹿児島大学、立教大学大学院、日本ルーテル神学校、米国トリニティー・ルーテル神学校卒業。日本福音ルーテル教会牧師として、京都賀茂川、東京、札幌、武蔵野教会を牧会。その後、ルーテル学院大学教授を経て、現在、キリスト教カウンセリングセンター理事長。

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