厳かでも偉そうでもない「普段通りの」復活【聖書からよもやま話447】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、 マタイの福音書の28章です。よろしくどうぞ。

マタイの福音書 28章9節

すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

イエス様が復活した時のできごとです。墓に行った女性たちの前に天使が現れて「イエス様は復活しましたから、ここに遺体はありませんよ。」と言いました。それで彼女たちは喜んで他の弟子たちにそのことを伝えようと走り出しました。

そこに!!突然イエス様が現れました。「諸君、私は復活したのだ!」と、厳かに、偉そうに出てきたのではなく「おはよー」と言って現れました。たぶんこれが、普段通りのイエス様のあいさつだったのかと思います。おそらく笑顔でもあったでしょう。復活というあまりに特別なとんでもないことを成し遂げた直後でも、いつも通りに人に接するイエス様がよくわかるシーンで、個人的にこのシーンがとても好きです。

何か大変なことを成し遂げた後、乗り切った後、いつもと同じように振る舞うことは意外と難しいことです。ちょっと偉そうにしてしまったり、ちょっと興奮してしまったり、疲れた態度をとってしまったり、僕たちは何かと、大変なことの後には普段と違う振る舞いをしてしまうものです。

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UnsplashAnastasia Sklyarが撮影した写真

何より、復活というのは復活前と違う存在になったイエス様が現れたのではなく、それまでと同じイエス様が現れたのだということが、とても大切なのかと思います。イエス様は復活によって「変身」したわけではないんです。そのままありのままのイエス様として復活したんです。

たとえば大切な人を失くして、その大切な人が復活して会いに来てくれたら嬉しいですよね。でもその時に、その大切な人が「私は復活した特別な人間だぞ!」なんて威張っていたり、いつもと違う態度だったりしたらちょっとがっかりしてしまいますよね。亡くなった方が生き返ることを望むのは誰しもあることだと思いますが、そんな時に人が望んでいるのは「普段通りの」その人が生き返ることなんだと思います。「変身した」その人よりも「普段通りの」その人に会いたいと願うのだと思います。

先日、亡くなった祖母の夢を見たんですけど、祖母はいつも通りの服を着て、部屋に掃除機をかけていました。なんの特別なことも言わず。目覚めた時、とても幸せな気持ちでした。夢とはいえ「変身した」祖母よりも、「普段通りの」祖母に会えたことが嬉しかったんです。

でもイエス様の復活が「普段通りの」復活だったということは、やがてくる日に復活する僕たちの姿、僕たちの大切な人の姿は「普段通りの」姿だということです。これはとても嬉しいことですよね。「普段通りの」あの人に、僕たちはいつかまた会えるんです。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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