羊であっても獅子の心を忘れない【聖書からよもやま話342】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、ヨシュア記の1章です。よろしくどうぞ。

ヨシュア記 1章6節

強くあれ。雄々しくあれ。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

モーセの後継者としてイスラエル民族の指導者になったヨシュアに、神様は「強くあれ。雄々しくあれ」と何度も言いました。この章だけで3回も言っています。そしてヨシュアもまたそれを受けて自分の部下に「強く雄々しくあってください」と命じてあいます。「強く雄々しく」はヨシュアにとって生涯のスローガンと言えるものでしょう。

さて、現代を生きる僕たちクリスチャンは「強く雄々しく」あるでしょうか。少なくとも世の中の人の抱くクリスチャンに対するイメージはこれとは正反対と言って良いものではないかと思います。世のイメージでは、特に日本ではクリスチャンとは「穏やかで、心優しい人たち」といったものではないでしょうか。もちろんそれは悪いことではありません。それもまたクリスチャンとしてあるべき姿です。「愛は寛容であり、愛は親切です・・・」とコリント人への手紙に書いてあるこの姿は、クリスチャン自身にとっても、そうでない人にとっても、クリスチャンのあるべき姿として認識されています。そしてそれは決して間違いではありません。

しかしそれだけでいいのでしょうか。クリスチャンはもしかして「強く雄々しく」を忘れてはいないでしょうか。神様は自分の愛する民に「強く雄々しく」あることもまた、求めているんです。クリスチャンは、特に日本のクリスチャンは、もっとタフであっていいと思います。

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UnsplashIngo Stillerが撮影した写真

たとえば人生には逆境っていくらでもありますけれど、クリスチャンにとってみれば世の逆境なんて気にかける必要のないことです。だってモーセは文字通りの「背水の陣」に追い込まれましたけれど、神様はそこで海を割ってまで助けて下さるんですから。海を割れる神様が、僕たちの抱えるそこらの逆境をなんとかできないわけがありません。どんな逆境でも神様は「気にするな、俺がなんとかしてやる」って言って下さる方です。そんな神様を信じているクリスチャンはもっともっと「強く雄々しく」なれるはずです。タフになれるはずです。

そんな風にタフに生きていれば周りの人も勝手に「この人のタフネスってどこから湧いてくるの?」って疑問に思って自ずとキリストについて尋ねてくるようになるかもしれません。その時に堂々と「キリストのおかげです!」と答えられること、これもまた大事なタフネスですし「強く雄々しく」です。弱々しい声で「信じませんか?」「教会に来てみませんか?」なんて言うよりも、時にはこの方がずっと良い伝道になりもします。

クリスチャンは羊によくたとえられますし、羊であることも大切ですけれど、時には獅子になることも必要です。そしてそれも神様から命じられたクリスチャンのあり方なんです。羊であっても獅子の心も忘れない。このバランスが大切なのかと思います。

 

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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