神様に対する「面従腹背」は超危険【聖書からよもやま話334】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、歴代誌第二の25章です。よろしくどうぞ。

 

歴代誌第二 25章2節

彼は主の目にかなうことを行なったが、全き心をもってではなかった。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

「面従腹背」というのは「表面上だけ従って、心の中では従わない」という意味です。これを座右の銘としています、と言った元事務次官の方がいらっしゃって広く知られる言葉となりましたが、面従腹背の人は聖書の時代からいたそうです。

アマツヤ王は神様に従って生きましたが、それは表面上だけのことであって、心から神様に従ったわけではなかったようです。「形だけ従っておけば文句はないだろう」とか「神様が自分に良くしてくれているうちは従っておこう」とか、そういう態度で神様と接していたのではないかと思います。

実際、アマツヤは神様から「雇った兵を解雇しなさい」と言われた時に「それじゃぁ雇った人件費が無駄になってしまう」と不平を言ったりして、神様よりも自分の利害を優先させるような態度を示しましたし、最終的には敵国から奪った異教の神を祀り、神様を無視するようになってしまいました。「敵に勝てたから、もう神様の力はいらないよ」と、こういうことでしょう。それで最終的には神様から見放され、味方の謀反によって身を滅ぼしました。
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しかし僕たちもアマツヤを手放しでは笑えません。僕たちの信仰もまた時としてアマツヤのように「全き心をもって」ではないことがあるのではないでしょうか。礼拝するにせよ、祈るにせよ、奉仕するにせよ、「やっておけばいいんでしょ」とか「やらないと牧師に怒られるから」とか、そんな態度になってしまうことは長く信仰生活をしていれば一度や二度はあるでしょうし、また信仰生活の短い人であれば「信じていたら良い事が起こるかも知れない」とか「願いがかなうかも知れない」なんて、自分の利害のために神様に従っているケースも時折みます。

これらの態度は神様に対する面従腹背であって、褒められたものではありません。神様を信じるのに「○○だから」という理由は必要ありません。理由のある信仰は、その理由が達成されたら「神様ありがとう!お疲れ様でした!じゃ!」と神様から離れることになりかねません。つまり神様が「用済み」となってしまうんです。理由なしに「ただ信じる」ときに、本当の信仰と言えるのだと思います。

神様を信じることに世俗的なメリットを求める時、神様への面従腹背がすでに起こっています。僕たちは誰も「○○だから」という理由を自分で持って生まれてはきていません。理由なく生まれてきたはずです。同じように理由なく信じることが、神様の求めている信仰なのかと思います。

 

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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