聖書の善悪と、世の善悪は必ずしも一致しない【聖書からよもやま話272】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、列王記第二の24章です。よろしくどうぞ。

列王記第二 24章9節

彼は、すべて先祖たちがしたように、主の目に悪であることを行なった。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

列王記には一人一人の王について神様の視点から「悪を行なった」「善を行なった」と端的かつ明確に評価が下されています。ただ、ここに「悪を行なった」と書いてあるからと言って、その王がいわゆる「悪王」とか「愚君」だったかと言うと、それほど単純なこととも言えません。というのも、聖書で「悪」とされた王でも、後世の歴史家による評価では必ずしも「悪」とは評価されず、むしろ「いい政治だった」と評価されるケースもあるからです。

基本的に聖書での王の評価は「神様のいいつけをちゃんと守ったか」が基準になります。つまりちゃんと父なる神様を崇め、他の神様を崇めることをしなければ「善」とされるのですが、宗教的な視点を抜きにすればそれは、文化的に閉鎖政策をとったということができます。反対に「他の神々を崇めた」というのは、他国の文化を取り入れ、国際交流にも積極的だった、と言い換えることもできるわけです。外交・軍事的にも「善」とされる王の多くは他国との同盟や援助を受け入れず、自国一国の力だけで国を防衛しようとするのに対し、「悪」とされる王は同盟や他の大国の介入によって国を防衛しようとします。
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僕たちの生活でも同じようなことが言えます。神様に評価される生き方というのは、必ずしも世の中の人に評価される生き方であるとは限りません。たとえばクリスチャンは日曜日には礼拝に行くことが推奨されていますが、これを忠実に行えば世の中の人からは「あいつは付き合いが悪い」と言われるかもしれません。世の用事のために礼拝を休むくらいの方が、「最近あいつは付き合いが良くなったね」と評価されることもあるかもしれません。

しかしそれでもクリスチャンが優先すべきなのはあくまで「神の目から見て」善か悪かということです。世の中で評価されるために、神様の言いつけを後回しにしてはいけないよ、というのが聖書のメッセージです。世の基準は時代や時流によって意外とコロコロ変わるものです。現代の国際情勢を見ても、10年前までは「グローバル化」が半ば絶対善のように扱われていましたが、ここ最近はナショナリズムが少しずつ見直されて来ています。ですから、歴史学者たちが「聖書では悪とされているけど、実はいい王様だったよね」と評価している王についても、いずれまたその評価は変わるかもしれません。一方で「神の目から見て」の評価は変わることがありません。

変わるものを追い求めるのか、変わらないものを追い求めるのか。クリスチャンにはそれが常に問われ続けています。正直なところ、僕も気づけば世の評価を追い求めてしまっていることが多々あります。聖書を読むことはそんな僕を「いけね、また世に流されていた。元の道に戻らなきゃ」と軌道修正してくれます。人は放っておくと世に流れるものです。だからこそ日々聖書によって軌道修正し続ける必要があります。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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