「殺人罪」と「過失致死罪」は聖書でも区別されています【聖書からよもやま話45】

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章から心に浮かんだ事柄を、皆様の役に立つ立たないは気にせずに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、申命記の19章です。前回に引き続き申命記ですが、偶然です。完全にランダムに選んでますからそんなこともあります。それではよろしくどうぞ。


◆申命記 19章5節

たとえば、隣人と一緒に、木を切り出そうと森に入り、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、斧の頭が柄から抜けて隣人に当たり、その人が死んだ場合、その者はこれらの町の一つに逃れて生きることができる。

実はこの章の最後、19章21節にはあの有名な「目には目を、歯には歯を」が書いてあります。というわけで、この19章には主に犯罪者に対する復讐について書いてあるのですが、短絡的に「悪い奴には復讐しろ。目には目をだ!」と感情的なことが書いてあるわけではありません。「たとえ犯罪者でも事情によっては死刑にはしないよ」ということも書いてあるんです。

その一例がこの5節で、現代で言う「過失致死罪」がここに例示されています。直前の4節ではこれが「前から憎んでいたわけではない隣人を、意図せずに打ち殺してしまった殺人者に関する規定」であると記されています。そして直後の6節には「その人は前から相手を憎んでいたわけではないから、死刑にあたらない」と書いてあります。

聖書の時代から、「殺人罪」と「業務上過失致死罪」は明確に区別されていたんです。「殺人罪」の定義は「従前からの恨みをもって」「意図的に」相手を殺した場合だということになります。


この定義は現代の犯罪に当てはめても、それほど変わっていないのではないかと思います。現代の殺人事件の捜査でも「殺意」と「動機」が重視されます。この「殺意」は「意図的に」ということですし、「動機」を調べることによって「従前からの恨みをもって」殺したのか、その場の感情で殺したのかが分かりますし、それによって量刑も変わるということです。

こうしてみると、聖書って現代の刑法にも影響を与えているんだなと思わされます。刑法だけでなく、民法、商法、民事訴訟法、刑事訴訟法・・・と、六法全書の全域に渡って、聖書にはその源流があったりします。一応、僕も行政書士という法律家の端くれでもありますから、そんな箇所を見つけると「面白いなー!」と法律の勉強のモチベーションが少し上がります。

過失致死罪といえば、先日出された「池袋暴走事故」の飯塚被告への一審判決について、「量刑が軽すぎる!」という声もたくさん上がりました。確かにあの事故はあまりに悲惨で、被告の過失も非常に大きなものでしたが、「従前からの恨みをもって」「意図的に」起こした事故ではないので、あくまであれは「過失致死罪」であって、「殺人罪」とすることはできません。ですから求刑も「7年」が最大でした。現代日本の裁判では求刑通りの判決が出ることは稀で、だいたい求刑の7〜8割の刑期が言い渡されることが一般的ですから「禁固5年」という判決は現代日本の司法としては最大限の処罰だったかと思います。

遺族の気持ちを思えば、やりきれない思いもしますが、それは聖書の時代からあったことなのだと思います。斧がすっぽ抜けて死んでしまった人の遺族だって、もしその斧の管理に重大な過失があったのなら、あるいは斧を使う人の能力が明らかに欠落していたのなら、被告に重罪を求めたことでしょう。しかしそういった感情があるであろう中で「こんな何も生み出さない無益な争い、もう辞めませんか」と仰ったご遺族の姿勢には心からの敬意を表したいと思います。

それではまた。
主にありて。MAROでした。


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