分断社会を生み出す「正義」にご用心を。【聖書からよもやま話35】

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章から心に浮かんだ事柄を、皆様の役に立つ立たないは気にせずに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、詩篇の53章です。それではよろしくどうぞ。


◆詩篇 53篇3節

彼らはことごとく背き去りだれもかれも無用の者となった。
善を行う者はいない。だれ一人いない。


「義人はいない。一人もいない」と新約聖書に書いてある言葉は、ご存知の方も多いかもしれません。これは新約聖書、ローマ人への手紙3章10節の言葉ですが、このフレーズの前には「次のように書いてあるとおりです」とあります。それがどこに書いてあるのかというと、今回の詩篇53篇です。このように新約聖書には「書いてある」とか「言われている」とかいう、いわゆる「引用」が用いられるのですが、その引用元は旧約聖書なんです。新約聖書は旧約聖書を否定しているのではなく、しっかりと旧約聖書に土台を持って書かれているんです。

あ、ちなみに聖書の他の書ではみんな「○○章」と記されますが、詩篇だけは「章」ではなく、「篇」が用いられます。面倒だからみんな「章」でいいのに……と思ったことがあるのは僕だけではないと思いますが、慣れてしまうと気にならなくなるものです。

さて、この言葉の意味するところは見事に文字通りなので解説する必要もないでしょうが、そのまんま「正しい人なんていない」ということです。すごくシンプルなメッセージです。しかしシンプルだからこそ奥の深い言葉です。人間はどうしても「自分は正しい」と思ってしまいます。そう思っていなかったらやってられないというのもあるでしょう。しかしもしかしたらそれが人間の最も致命的な罪かもしれないと近頃思います。

近年、社会の分断だとか、顔の見えない誹謗中傷だとかがとかく話題になりますが、分断ってそれぞれが「自分は正しい!」と主張することによって起こるものです。「自分は正しくないかもしれない……」と謙遜な、悪く言えば弱気な姿勢で世を分断させる人はいません。また誹謗中傷も、それを投げる本人は「自分は正しい!」と思って投げています。「自分は正しくないかもしれない。あなたが正しい……」なんて姿勢で誹謗中傷を投げる人なんていません。

歴史上のたくさんの争いを見てみましても、みんな結局は「正義」を掲げて起こっています。みんな「正義は我らにあり!」と言って戦うのであって、「私たちは正しくないかもしれない。でも戦う!」なんて戦争はあまりありません。「世界史上で最も多くの戦争を起こしてきたのは宗教だ。だから宗教はよくない」と主張なさる方も少なくありませんが、僕は世界史上で最も多くの戦争を起こしてきたのは宗教ではなく「正義」だと思います。

Themis225

Themis-jp, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons


各国の裁判所に飾られていたりする「正義の女神」は、ローマ神話の女神ユースティアが起源だとされています(ギリシア神話のテミスとの区別が曖昧になっていたりもしますが)。そしてこのユースティアという名前が英語の「Justice」の語源でもあります。彼女は片手に天秤を持ち、もう片方の手には剣を持っています。つまり正義は武装しているんです。考えすぎかもしれませんが、そんなことからも正義は争いが伴うことを前提とした概念だとも言えるのかと思います。

聖書はそんな人間の性質を知っています。だから何度も「義人はいない」と繰り返し宣言するんです。「君の敵は正しくないかもしれない。しかし君自身も正しくないのだ。だれも正しくないのだ」と。この言葉を何度も何度も学んだはずの教会が、歴史上何度も正義の名の下に戦争を起こしたのは残念であるとともに、「自分を正しい」として争う罪の根深さはいかほどかと思います。そして現在でもクリスチャン同士でさえ「私が正しい!」「いや、私だ!」
と主張し合う争いがしょっちゅう起こっています。そして僕だって、いつの間にやら「私は正しい!」と自分の「正義」を振り回して誰かと争ってしまっていたりします。

この言葉を読むたびに、「そうだった。僕だって正しいわけじゃない」と思い起こすんです。自分が正しくないことを思い起こすこと。これって今の時代にこそ、必要なことなんじゃないかと思います。

それではまた。
主にありて。MAROでした。

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