【連載小説】月の都(7)下田ひとみ

 

ふみが家を出たのは、志信を送り出した30分後であった。

春日ノ森は、ふみの家から電車を乗り継いで1時間ほどの距離だった。余裕を持って出たつもりだったのだが、駅から本田家へ行くのに迷ってしまい、着いた時には集会の開始時刻をとうに過ぎていた。雨もその頃には本降りとなっていた。

集会をするというので、広い一軒家を想像していたのだが、意外にもそこは市営団地の一室であった。

コンクリートの階段を上がっていくと、ふみの下駄(げた)が打楽器のような音で響いた。閉じた傘からしたたる雫(しずく)がくずし字のように灰色の床を濡らしている。

表札に「本田」とあるドアのチャイムを押すと、出迎えてくれたのは若い婦人であった。

「よくおいでくださいました。迷われたんじゃありません? 駅までお迎えに行きましたのに」

「電話でお聞きした時は、大丈夫だと思ったんですけど……。申し訳ありません、遅れてしまって」

部屋へ入ると、中にいるのは本田と同年代と思われる婦人が10人ほどであった。赤ん坊や小さな子供たちもいて、襖(ふすま)を取り払った二間続きの部屋は、人熱(ひといき)れで暑かった。

座卓には書物やノートが広げられ、皆が話に聞き入っていた。そのためか、ふみが入っていっても特に注目されなかった。会釈(えしゃく)だけして、勧められた席に座ると、隣の婦人が身を寄せてきた。

「聖書をお持ちですか」

「いいえ」

すると、厚い書物が眼の前に置かれた。ふみがどうしていいのかわからずにいると、その婦人がページをめくって、「ここです」と教えてくれた。

藤崎陶子はふみの向かいに座っていた。しかし、語っているその人が陶子本人であるとは、最初ふみはまったく気づかなかった。

陶子は聖書の話を熱心にしていた。婦人たちはそれを聞こうと努めていたが、それはなかなかに難しいことであった。退屈した子供たちがむずかったり、「外で遊びたい」と駄々をこねたり、赤ん坊が泣き出したりするからである。

そのたびに母親たちは、子供にお菓子を与えたり、ジュースを飲ませたり、赤ん坊を抱き上げたりするのだが、思うように黙ってくれない。周囲への気兼ねもあって、彼女たちが苛立(いらだ)ちを抑えているのがわかる。そのために部屋は奇妙な緊張感に包まれていた。

ふみはすぐに、ここに来たことを後悔した。

もともと聖書の話に興味があるわけではなかったし、子供のいないふみは、こういう場が苦手であった。何よりも、お目当てだった陶子その人にがっかりしてしまったのである。

まるで眼鏡をかけたマネキン。

宝景寺で見た姿とは別人のようであった。

あの時の萩の精のような優雅さも、心が浄化されるような綺麗さも、感じられない。

舞台に立っていた時、あれほどに私を魅了した女性が、本当にこの人なのだろうか。

ふみは信じられない思いだった。

たしかにあの時は遠目だった。それに今日の彼女は、着物姿でも、踊っている姿でもない。

でも、それにしたって……

このひと月あまりの間、一心にこの時を待ち焦(こ)がれ、今朝は早起きをして、冷たい雨の中をひたむきに目指して来たのに。すべては甲斐(かい)のないことだったと悟らされたのである。

初めて聞く陶子の声も、外の雨音のように単調だった。

聖書の話もつまらない。

ふみは悲しくなってきた。(つづく)

月の都(8)

 






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