福者高山右近ゆかりの寺 本行寺(石川県七尾市)を訪ねて

石川県七尾市小島町にある小高い山の中腹に本行寺はある。趣のある本堂の前には、精悍な顔つきで腕組をした高山右近の像が佇む。キリシタン大名高山右近が、マニラに追放されるまでの20年間、身を潜めていたとされる同寺は、別名「隠れキリシタンの寺」とも呼ばれ、近年、注目を集めている。

国内外から注目される本行寺とは?

高山右近は、2016年、ローマ法王庁より「聖人」の次に崇敬の対象として位の高い「福者」に認定されている。また、2018年には長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が、世界文化遺産に登録されたことも追い風となり、同寺にも全国から観光客が訪れるようになった。最近では、コロナの影響もあり、観光客が減ってしまったものの、国内外からの多い日で100人ほど訪れるという。

額が十字架になっているキリシタン 狛犬

本行寺は、15世紀末に畠山文化を担った茶人円山梅雪(まるやまばいせつ)によって開かれたとされる。同じく茶人千利休誕生の30年前、すでに梅雪は、七尾の地において茶の湯の所作、作法を体系化し、武士から一般庶民に至るまで茶の世界を普及させていた。

 

加賀藩とキリスト教

16世紀に入ると、能登国を治めていた大名前田利家が、全国に先駆け、西洋の文化や医学、薬学、軍事学などを取り入れようと試みていた。加賀藩は、表向きは徳川幕府と主従関係にあったが、外様であったため、常に裏では徳川と対峙(たいじ)していた。万一に備えて、あらゆる分野で進んでいたキリシタン文化圏、国家との交流を重視するようになり、加賀藩の国力の増強を図ろうとしていた。それらの国々からは「信仰と交易」をワンセットに要求してきたが、加賀藩はその要求に応じ、前田利家をはじめ、前田一族、重臣、町民にもキリスト教が広まった。禁教令が敷かれてからも、幕府を警戒しつつも、一人の殉教者を出すことなく信仰を守ってきた。さらに、前田利家は、キリシタン諸国の文化や学問に精通していた高山右近を客将として招いた。右近は、マニラに追放されるまでの20年間、本行寺に身を隠しつつ、加賀藩の財政、金沢城築城にも携わっていた。

手を合わせた仏像を開くと十字架が

その様子をうかがい知ることができるさまざまな遺物が同寺内に遺されている。

腹部を開くと十字架が見える秘仏

中でもバチカン市国も注目しているという「隠れキリシタン秘仏」は、一見、胸の前で手を合わせた仏のように見えるが、手をスライドさせると、中から十字架が現れる。密かに信仰を守ってきたキリシタン達の知恵と強さを感じ、その姿は400年以上経った今日でも、「神々しい」という表現がふさわしい姿であった。

 

右近が記した日本訣別書状

同寺には、前田家の茶室「きく亭」も遺されていた。ここで右近らも茶を楽しんだのだろうか。身を潜めていた右近にとって、一時の安らぎになったに違いない。

右近直筆の「日本訣別書状」

室内には、高山右近が国外に追放される際に記した右近直筆の「日本訣別書状」があった。書状には、楠木正行の辞世の句を引用し、「彼(楠木正行)は、戦場に向かい、戦死して天下に名を挙げたが、是(右近)は、今、南海に赴き、命を天に任せて、名を流すばかりだ・・・六十余年来の苦もなんのその。ここにお別れの時がやってきました」として、感謝と別れの言葉を述べている。

 

キリシタン女性の着物と聖画

また、キリシタンの女性が誂(あつら)えたと思われる着物も飾られていた。遠目には、艶やかな和の模様が描かれた着物に見えるが、よく見てみると、一つ一つの模様がキリストの誕生の画になっていた。キリシタン女性の深い信仰の中にも遊び心を垣間見ることができた。

キリシタンの女性が身に付けた着物。イエスの誕生シーンが描かれている

不自然な手の形をした仏画も、注目の遺物だ。もともとキリスト教の聖画を模したものであり、本来は胸の辺りに十字架が描かれていたが、発覚を恐れ、十字架を消したのちに後から手を書き足したようだ。他の部分と明らかに筆質が違い、不自然であった。しかし、これもまた信仰を守るための知恵であったのだろう。

境内にあるゼウスの塔

境内には「ゼウスの塔」と呼ばれる墓碑があった。加賀藩のキリシタンたちが、これを心の拠り所にし、同寺を「この世のパライソ(天国)」として、聖地化していた様子が見てとれた。

右近が所持していた短刀

「海外からも注目されるのは、とてもうれしいこと。バチカンなどからも寄付の要請を受けることもある。しかし、加賀に住んでいた先人達が命をかけて守った信仰の遺物を、外国に渡すのではなく、ここで守っていきたい」と小崎学円住職は話す。

 






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