3月15日「ただ偶然に起こったことなど、何一つもない。」

全てのこと、一つひとつは、神が創造された作品である。一つひとつ全て、その形態も素材の中に創造者である神のサインが記されている。物質的な世界の何一つも神と無関係なものは何もない。たとえば、細胞の一つひとつが救いの器官として位置づけられている。聖書的宗教は物質 ―― つまり、目で見られたり、口で味えたり、鼻で嗅ぎ取れたり、そして耳で聞き取れたりできる被造物から切り離されては、生きて行くことは出来ない。
実に、全てが「創造の御業(みわざ)」なのである。ただ偶然に起こったことなど、何一つもない。チョークチェリー【バラ科サクラ属の落葉低木。北アメリカの中部、カナダ南部からアメリカ中部に広く分布】とツンドラ【凍原、寒地高原。地下に永久凍土が広がる降水量の少ない地域である】とイタチと、例えばこの三つは、たまたま偶然にそこに存在しているのではない。一つひとつ全てがデザインされている。全てが神のデザインによるものなので、神の創造の中で私たちの創造主と可能な限り豊かな関係の中で生きたければ、目を留めなくてもいい創造の部分は一つもない。どれも、我慢を強いるような都合の悪いものではない。「神を褒めたたえようと、その敬虔(けいけん)な眼差しで神を見上げる人たち」の足を躓(つまず)かせるために、悪魔が置いた「躓きの石」がある ―― そんなことはあり得ない。創造の御業の中に、わたしたちは神と出会う場を見出すのである。そこで、わたしたちは神と対話する。ベへモット【ヨブ記40章15節などに登場する怪物】やレビヤタン【ヨブ記40章25節に登場する海の怪物。「ねじれた」「渦を巻いた」という意味のヘブライ語が原義】は、神の御声(みこえ)によって、この世に存在するようになった。その同じ御声が「あなたの罪は赦(ゆる)された」と告げるのである。この同じ御声がわたしたちに呼びかけ「苦難の日に神を呼べ」と励ますのである。わたしたちの外側と内側にある世界は、同じ一つの現実である。天と地は神の一つの意志によって形作られたのである。

祈りとは、神の創造の御業が展開する舞台の前にすえられた特等席である。祈る時、わたしたちはそこに座り周りを見わたすのである。山々は巨大で、その巨体を空へと放っている。小川は岩々の間を流れ落ち、ヘムロック【カナダツガ(栂)とも呼ばれる。米アラスカ州、カナダ・ブリティッシュコロンビア州西海岸から米ワシントン州、米内陸のアイダホ州に分布。米国で最も美しい樹形と言われる】の林の下で、豪華なライトショーを披露している。湖面には青空が映り込み水面を満たして、まるで地上にある天国の趣(おもむき)を呈している。ライオンの口が獲物を引き裂き、燕(つばめ)は巣を作っている。ソロモンとシバの女王は抱擁している。鷲(わし)は雲の中からまっすぐ急降下して、平原にいる兎(うさぎ)をその爪で捕らえ、ほんのしばらく、その二つの被造物は恐ろしい格闘をして、そして一つの調和へと落ち着いて行くのである。母親の胸に抱かれる赤ちゃんが、お腹一杯母乳を飲んでいる。物質は現実である。肉(肉体)はよいのである。

何と野性的で素晴らしいこの世界だろうか
神よ!
あなたは 全てを創造された。
あなたにある英知で
この地をあなたの被造物で
溢れさせてくださいました。
―― 詩編104編24節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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