3月3日「浮浪者のように生きる」

想像力を駆使して、イエスを捉え直すことは、非常に難しい。イエスはご自身を「人の子」と呼び、十字架に架けられ血を流した姿を示したのである。そこには矛盾がある。その矛盾は、それほどドラマチックなものではない。それはむしろ、侮辱的なものであった。自称「人の子」というイエスは、娼婦と夕食を共にし、徴税人と昼食をするために立ち寄り、子どもたちを祝福して時間を浪費していた。その時、故郷から追い出そうとローマ軍が徒党を組んで迫っていたのである。にもかかわらず、イエスはつまらない負け犬たちの病を癒(いや)し、名高いファリサイ人たちや影響力のあるサドカイ人たちを無視していたのである。考えられる限りにおける最高の肩書を受けたイエスは、文明の中で最も卑しいとされる生き方を選んで生きたのである。王のように話し、奴隷のように行動したのである。イエスは高い権威をもって説教し、浮浪者のように生きたのである。

祭司長と律法学者たちも一緒になって、代わる代わるイエスを小馬鹿にしながら愉快に過ごしていた。「他人を救えたくせに ―― 自分は救えないのか! これがメシアか? イスラエルの王か? さあ、十字架から降りてみろ。そうすれば、俺たちはみな、信じてやる!」実にその時、十字架につけられた他の者たちもまた、一緒になってイエスを嘲笑した。
―― マルコによる福音書15章31~32節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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