【断片から見た世界】『告白』を読む 「共同存在」の手前にあるもの

「わたしの心はどれほど苦悩をなめたことであろう」:「絶望」なるものの本質を探る

アウグスティヌスにとっては、「本来のおのれ自身」に到達するという出来事は、「絶望」のモメントをくぐり抜けることではじめて生起することができたと言えるのではないか。『告白』第七巻第七章において、彼は次のように回心直前の時期のことを回想しています。

「神よ、産みの苦しみに悩むわたしの心はどれほど苦悩をなめたことであろう。あなたはそれに耳を傾けられたが、わたしは知らなかった。わたしは沈黙のうちに熱烈に探究したが、心の沈黙の苦悶こそはあなたの慈悲を求める大きな叫び声であった……。」

ここには、「絶望」なるものの本質を考える上での大きな手がかりを見出だすこともできるのではないだろうか。今回の記事では、この箇所を検討することを通して当時のアウグスティヌス自身の実存のあり方を探るという観点から、問題を掘り下げてみることにします。

「単独者」であることの苦しみ:『告白』第七巻第七章の記述から

上に引用した箇所に続いて、アウグスティヌスは次のように言っています。

『告白』第七巻第七章:
「神よ、産みの苦しみに悩むわたしの心はどれほど苦悩をなめたことであろう。あなたはそれに耳を傾けられたが、わたしは知らなかった。わたしは沈黙のうちに熱烈に探究したが、心の沈黙の苦悶こそはあなたの慈悲を求める大きな叫び声であった。わたしがなんで苦しんでいたかを、あなたは御存知であったが、人々はだれも知らなかった。わたしの苦悶のうち、わたしの舌を通じて、わたしのもっとも親しい友の耳にさえ伝わったものはどんなに少なかったことだろう。わたしの苦悶のうち、時がたっても、口で語っても、しずめえなかったものは、果してかれらの耳にはいったであろうか……。」

ここから読み取ることができるのは、アウグスティヌスの探求は、「単独者」であることの苦しみを通してでなければ行われえなかったということなのではないだろうか。事態を、二点に分けて整理してみます。

回心直前の時期のアウグスティヌスには、同じ道を志している友人たちがいたことは確かです。すでに見たアリピウスやネブリディウスをはじめ、彼の周囲には、哲学の営みに関心を持ちつつ、そのままこの世で生きてゆくこと自体に限界を感じている人々が集まっていました。「『生きることの意味』が分からないまま様々な物事に駆り立て続けられながら生きてゆくことに、何の意味があるのか?」というのが彼らの共通の悩みに他なりませんでしたが、だからこそ、彼らにとっては「信仰を持つ」という実存の可能性が、何か突き抜けたところにある自由の方へと通じているように見えていたと言えるのかもしれません。

② しかしながら、上に見た箇所によるならば、これらの友人たちの存在にも関わらず、アウグスティヌスは多くの場合、「生きることの意味」を探求することの苦しみを、自分一人で被らなければならなかったようです。それは、一つには、彼の探求が新プラトン主義の哲学を始めとする、きわめて理論的負荷の大きいものであったからということもあるでしょうが、より根底的には、この探求が、認識と意志とが、形而上学と実存そのものとが絡まり合う地点においてなされなければならなかったからなのではないだろうか。アウグスティヌスの探求は、哲学の歴史そのものとの格闘であったのと同時に、「単独者」としての彼自身の実存に、ただ彼自身の生にだけしか当てはまらないような問題との死闘でもあったというのが、上に引用した箇所から読み取ることのできる内容であるものと思われます。

「共同存在」の手前にあるもの

『死に至る病』におけるキルケゴールの言葉:
「もし思弁がこの線に沿って何かする気になるとすればだが、思弁は単独者に向かってこんなふうに言うに違いない。『単独の人間であることなんかに時間を無駄にしている場合かね。そんなことはすっかり忘れてしまうのがいい。単独の人間であるということは、何ものでもないということだよ。[…]』だが、これもやはり偽りだろう。単独の人間が、単独の人間であることが、最高のことなのだろう……。」

上に見たアウグスティヌスの証言からは、絶望なるものは人間を「共同存在」の次元から切り離しつつ、「単独者」として「生きることの意味」の問題に向き合わせるという事実を読み取ることができるのではないだろうか。

絶望している人間にとっては、それまで自明であったはずの全ての価値が宙吊りにされてしまうのと同時に、「生きることの無意味」の問題が前景に浮かび上がってきます。32歳当時のアウグスティヌスが真理の探求に全力を傾けなければならなかったのはまさしく、そうするのでなければ、彼自身の心がすぐにでも窒息してしまうからにほかなりませんでした。「形而上学」の営みとはまさしく、自らの命の根源そのものを問い直すことに等しいのであって、新プラトン主義の哲学を経て信仰の道へと至る彼の探求は、「無意味ではない生」のありかを求める死に物狂いの試み以外の何物でもなかったと言えるのかもしれません。

そして、上で見たように、アウグスティヌスはこうした状況にあって、他者たちと語る言葉を持たないことの苦しみを経験しなければなりませんでした。すなわち、彼はそれまでの彼自身を生きることの内に繋ぎとめていた、「隣人と普通に話をすること」の安らぎを奪われてしまったからで、それというのも、「無意味」の問題に危機的な仕方でさらされている彼にとっては、そもそも日常の言葉それ自体が正常な仕方では機能しなくなっていたからにほかなりません。

これらのことは私たちに対して、絶望の契機は人間の存在を「剥き出しの生」として単独化しつつ、自らの実存そのものに根底から向き合わせるという事実を改めて示唆していると言えるのではないか。

「生きることの意味は、どこにあるのか?」この問いはいわば問いの中の問いとも言うべきものですが、その問いがはらんでいる深淵のゆえに、問われることのないままに放置されることもありえます。絶望の契機は、それまでは気づかれることのないままに人間を生きることの内へと繋ぎとめていた「共同存在」の次元を停止させてしまうことによって、この問いを問いとして改めて浮かび上がらせると言えるのではないか。絶望することによって危機に陥ることになるのはおそらく、人間をそれまで命そのものの内に保っていた〈愛〉の次元に他ならないのである。この次元は、それまで当人にすら自覚されることのないままに「生きること」を保ち、「意味」を「意味」として保護しつつ、「共同存在」の安らぎを、「隣人と普通に過ごすこと」としての日常を機能させていた。〈愛〉とはこのように、その根底においては形而上学的・実存論的機能を持つ「命そのものの守り手」に他ならないのであって、絶望の契機は、まさしくこの次元そのものをこそ危機にさらしつつ、改めて問いに付さずにはおかないのではないか。この意味からすると、『告白』第七巻第七章におけるアウグスティヌス(この哲学者にとって〈愛〉とは、弛むことなき知的鍛錬を通してそのあり方を見定めるべき探求の主題に他なりませんでした)の証言は、「共同存在」の次元の手前にあるものを示唆していると見ることもできるのかもしれません。

おわりに

「単独の人間であることが、最高のことなのだろう」というキルケゴールの言葉は、どのように理解すべきなのだろうか。哲学的省察には、「絶望」の問題からその構造を取り出し、それを描き出すことが、果たして可能なのだろうか。私たちとしては引き続き『告白』の言葉に耳を傾けつつ、問題を掘り下げてみることにしたいと思います。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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