【断片から見た世界】『告白』を読む 『遺産』の内の最たるもの

人間存在にとって、最も本質的な意味における「遺産」とは何か?:「歴史性」の根源を問う

私たちは「哲学の元初」を探ることの必然性について掘り下げるために、「人間存在にとって、『歴史を生きる』とは何を意味するか?」という問いに取り組んでいます。ハイデガーによるならば、「本来的な仕方で歴史を生きること」として実現される「決意性」とは、過去の時代から手渡された「遺産」を受け継ぐことによって生起する実存のあり方にほかなりませんでした。

「決意性にあって現存在はじぶん自身へと立ちかえる。その決意性が開示するのは本来的に実存することにぞくする、そのときどきの事実的な可能性であり、それをしかも決意性が被投的な決意性として引きうけている遺産にもとづいて開示するのである。[…]すべての『善きもの』は相続財産であり、『善さ』という性格は本来的実存を可能とすることのうちに存している。そうであるとすれば、決意性においてそのつど或る遺産の伝承が構成されるのである……。」

それでは、私たち人間存在にとって、受け継ぐべき「遺産」とは何を意味するのでしょうか。今回の記事では、『存在と時間』の言葉に耳を傾けながらこの点に関する考察を深めつつ、私たちが「哲学の元初」を探ることの意味について考えてみます。

「自由に実存することが有しうるゆいいつの権威」:「決意性」は何を重んじるか

結論から先に提示するならば、「遺産」にはさまざまなものが考えられますが、『存在と時間』の議論においては、人間が過去から伝承することになる「遺産」の内の最たるものとは、反復されるべき本来的実存の可能性、すなわち、仮借のない仕方で実存した先人たちが残していった「生きざま」に他ならないということになっているものと思われます。この点に関して、参考になる箇所を引用してみます。

『存在と時間』第75節より:
「決意性は、固有の自己への実存の忠実さを構成する。不安に耐える決意性として、忠実さは同時に、自由に実存することが有しうるゆいいつの権威に対する、つまり実存の反復可能な可能性に対する、ありうべき畏敬なのだ。」

ここでも、二点に分けて状況を整理しておくことにします。

本来的な仕方で実存するとは、「固有の自己」なるものに対して忠実であり続けることを意味します。「決意性」とは、自分自身の思惑を超えて語りかけてくる「内なる呼び声」からの呼びかけに、いかなる時にあっても聴き従おうとする実存の不断のあり方のことを言うのでした。この呼び声は人間に対して、何ものにも囚われることのない自由を生きることを、「本来の『あなた自身』を生きよ!」という要求に対して従順であることを求めてきます。心の奥底から響いてくる「内なる呼び声」の語るところはその本質からして、語りかけられている当人の思惑を超え出ずにはおかないものなので、人間にとって、「固有の自己を貫き続ける」=「実存の深淵において、『最も固有な存在可能』を選択し続ける」というのは決して楽なことではなさそうですが、真の自由なるものが存在するとするならば、それはこのような「呼び声」の語りかけに対して従順であるような生き方においてこそ実現されるものであると言えるのかもしれません。

② 上に見たような、固有の自己に忠実であるような実存のあり方は、単に「自分のしたいことをする」という生き方にとどまることは決してないものと思われます。むしろ、「内なる呼び声」は「遺産」の内でも最たるものを、すなわち、畏敬の念を抱かずにはいられないような先人たちが残していった「生きざま=実存の可能性」を受け継いで生きるように呼びかけてこずにはおかないのであって、哲学する人間の場合で言うならば、このことは、「哲学者」という未曾有の実存のあり方を、これ以外にはありえないという仕方で伝承することを意味するのではないか。彼あるいは彼女にとっては、「数多の先人たちと同じように、何よりもまず、『真理』そのものにこそ聴き従わねばならない!」という呼び声に対して従順であることを選択する時にこそ、「本来の『おのれ自身』を生きる」という可能性もまた開かれてくると言えるのかもしれません。

「歴史性」の根源とは、実存そのものにほかならない

パルメニデスの言葉:
「あるものがあると語りかつ考えねばならぬ。なぜなら それがあることは可能であるが 無があることは不可能だから。このことをとくと考えるよう 私は汝に命ずる……。」

古代ギリシアの思索の歴史の決定的な瞬間において「ある」が鳴り響くことによって、「元初」は真に「元初」となり、2023年の現在を生きている私たちのもとにまで伝承されている「哲学」なる営みも、後戻りすることのできない仕方で開始されることになりました。この出来事については詳しく探った上でなければ断定を下すことはできませんが、少なくとも上に引用した言葉を残したパルメニデスその人や、彼の探求に深く呼応するような仕方で探求を行ったプラトンとアリストテレスといった人々を通して、後に「形而上学」と呼ばれることになる未曾有の企てが哲学の歴史において立ち現れてきたことは確かです。「あるはある」、あるいは「存在が存在する」が決定的な仕方で語られた、その衝撃に応答するようにして「見えないもののために生き、そして死ぬこと」としての形而上学が開始されたのであって、「永遠の真理、真理なる愛、愛なる永遠」としての〈存在〉そのものに遭遇することになったアウグスティヌスの探求もまた、この開闢の出来事がなければ同じような仕方では行われえなかったことでしょう。「哲学の元初」を問うとは、この意味からするならば、なぜアウグスティヌスのような探求者たちが自分自身の「生きることの意味」の根源に出会うことができたのか、その出会いの出来事を可能にしたものを探ることに他ならないと言えるのかもしれません。

「存在の歴史」として哲学の歴史そのものを問おうとするこの企ては言うまでもなく、一朝一夕で達成されるようなものではないものと思われます。しかし、今回取り上げたハイデガーの「歴史性」に関する議論との関連において重要であるのは、哲学の問いなるものは、まさしく一つの生涯をその問いの探求に捧げ尽くすことを通してこそ、後の時代にまで受け継がれてゆくべき問いとして鍛え上げられてゆくということなのではないだろうか。

「元初」の思索者たちは、「ある」を問い、「存在するとはいかなる意味か?」という問いそのものに打たれるようにして彼ら自身の探求を開始しました。その結果、〈イデア〉や〈実体〉、〈エネルゲイア〉といった、今にまで伝えられているさまざまな概念が、そして、「哲学する人間として生きる」という未曾有の実存のあり方が生まれ、2023年の現在において後戻りすることのできない仕方でこの伝承の過程に巻き込まれてしまっている私たちもまた、哲学することへと呼びかけられ続けています。真の意味において生きること、本来的な仕方で実存することは、畏敬すべき実存の可能性に出会うことから始まる。先人たちは、まさしく「問いのために生き、問いのために死ぬ」という途方もない実存のあり方の記憶を私たちに残していったのであって、彼らは哲学する人間に対して、彼あるいは彼女自身もまた仮借のない仕方で問いを問いつつ実存するという可能性を提示しているのである。哲学とは、人間の命の根源そのものを死に物狂いで探り続けてゆく不断の知的探求にほかならないのであって、この道を歩むとは、思索の言葉が命から命を通して受け継がれてゆく、その伝承の過程に加わることに他ならないのではないだろうか。「歴史性」の根源とはこの意味において、実存そのものであるということになるのではないか。「形而上学の終焉」の歴史的雰囲気を生きている時代においてもこの伝承の過程に加わることが可能であるのかどうか、私たちは、これからの探求を通して探ってゆくことにしたいと思います。

おわりに

1961年に出版された『全体性と無限』においてエマニュエル・レヴィナスは、「見えないもののために死ぬこと、それが形而上学である」と語っていましたが、2023年の現在において哲学することへと向かっている私たちに対しても、この学的探求に身を捧げる可能性はなおも開かれているのだろうか。私たちとしては、以上のようなことをも念頭に置きつつ、「歴史性」をめぐる議論をもう少し掘り下げてみることにします。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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