【断片から見た世界】『告白』を読む 「究極の襞」

「ある」ということそのものの意味を問い直す:2023年の現在において、哲学はどこへ向かってゆくべきか

私たちはアウグスティヌスの『告白』を読み進めてゆく中で、「存在する」ということそのものの意味が根底から問われ直されざるをえないような箇所にたどり着いています。

「そこでわたしは、『真理は有限の空間にも無限の空間にもひろがらないから、無であるのではなかろうか』とたずねた。そうすると、あなたははるか彼方から、『わたしは存在するものである』と叫ばれた。わたしはこの声をあたかも心で聞くように、聞いたので、疑いの余地はまったくなくなり、『造られたものによって悟られ、明らかに知られる』真理の存在を疑うよりはむしろ自分が生きていることを疑ったであろう……。」

この箇所において言われていることは2023年の現在において哲学することへと向かっている私たちにとって、どのような意味を持つのだろうか。今回の記事では、1927年に出版されたマルティン・ハイデガーの『存在の時間』の言葉を参照した上で、この点について考えてみることにします。

「存在の意味への問い」:『存在と時間』が語るもの

『存在と時間』の冒頭部分において、ハイデガーは次のように書いています。

『存在と時間』巻頭言:
「『存在する』という語で、私たちはそもそも何を意味しているのか。この問いに対して、こんにち私たちはなんらかの答えをもっているだろうか。まったくもっていない。だからこそ、存在の意味への問いをあらためて設定することが必要なのである。」

哲学の営みはいま、「存在の意味への問い」を問い直さなければならない。これが、1927年の時点において、ハイデガーが同時代の人々に向かって提示した主張にほかなりませんでしたが、上の言葉は2023年の現在において哲学している私たちにとっても、なおも今日的な響きをとどめていると言えるのではないか。

次回の記事で詳しく掘り下げてみることにしますが、「存在」、あるいは「ある」の問題はハイデガーにとって、単なる哲学上の一問題にすぎないものではありませんでした。むしろ、現代という時代が抱えているあらゆる問題、「生きることの意味」の問題をも含めて、この時代の人間が向き合っている全ての真正な問題はどこかでこの「存在の意味」の問題に繋がっているに違いないというのが、思索する人間たるハイデガーの見立てであったといえます(cf.この見立てに沿って考えるならば、「私たちは生まれてくるべきではなかったのではないか?」という反出生主義をめぐる問いかけに対してもまた、存在問題をめぐる省察を通してこそ、その錯綜を解きほぐすことも可能であり、また、その問いかけのうちに含まれている切実なものにも真正な仕方で応答しうるということになるものと思われる)。

しかるに、その私たちは「ある」」ということの意味に関して何の答えも持っていないというのが、上に引用した箇所でハイデガーが主張しているところですが、そればかりではない、と彼は続けます。私たちは、本来は哲学の営みそのものにとって最大度の重要性を持っているはずの「『存在する』とは何を意味するか?」という問いに対して答えを持っていないのみならず、そもそも、答えを持っていないというこの事実に対して何らの困惑をも覚えていないのではないか。そして、「何らの困惑をも覚えていない」というこの事実こそ、実は私たちの時代の哲学が抱えている根の深い危機を、見えざる窮乏という事態を通して逆説的な仕方で証するものなのではないだろうか。

「それでは今日せめて、『存在』という表現を理解できないことに困惑しているだろうか。まったく困惑もしていないのだ。だからこそとりわけてまず、この問いの意味への了解を、なによりふたたび目ざめさせることが必要である。『存在』の意味への問いを具体的に仕上げることが、以下の論稿の意図するところである。」このような宣言と共に、哲学の「今」を問う書物としての『存在と時間』は開始されます。その由来をたどり直すならば、「限りなく古いもの」にまで行き着かざるをえないような根源的な問いを改めて提起しながら、同時にそれが、「哲学の現在」が避けがたく巻き込まれている運命のうちへと突き入ってゆくことへの呼びかけにもなっているというのが、この冒頭部分の言葉を読み解く上での重要な点なのではないかと思われます。すなわち、「存在の意味への問い」はここで、単に数ある問いの中の一つであるのではなく、むしろ哲学する人間によって問われるべき「問いの中の問い」として、再び目覚めさせられ、そこへと向かってゆくべき「根本の問い」として同時代の人々に対して提示されていると言えるのではないか。ともあれ、以上のようなハイデガーの主張を念頭に置くとき、私たちは目下読み進めつつあるアウグスティヌスの『告白』の言葉から、何を読み取ることができるのでしょうか。

「存在の意味への問い」を問うことは、何を意味するか:『告白』を読み解く試みにおいて問題になっていること

論点:
現代という時代にあって『告白』に出会い直す試みにおいては、「存在の意味への問い」を改めて問い直すことが要請されるのではないか?

すでに見たように、アウグスティヌスにとって、31歳の時に体験した「ミラノの見神」は、「存在」の意味そのもの、「ある」ということの意味そのものが根底から覆されつつ啓示されるような出来事にほかなりませんでした。

黙想のうちで「不変の光」を目にしたことによって、彼は「永遠性」なるモメントに、生まれて初めて触れることになります。彼はこの「光」について、「真理を知るものはこの光を知り、この光を知るものは永遠を知る。それを知るものは愛である」と語っていましたが、この出来事は同時に、「存在する」という言葉が彼にとって、それまでの理解を決定的に超え出るような仕方で響くようになってしまったことをも意味します。「ある」とは、その根源的な響きにおいて捉えるならば、まさしく〈永遠〉において「ある」ことを、決して動くことなく、すべての時と場所を包み込むようにして立ちとどまりつつ「ある」ことをこそ意味するのではないか。何か、命そのもののような、人間からのみでは決して生み出すことのできない愛によって、存在することそれ自体のうちに含まれている形而上学的な傷をも癒さずにはおかないようなもののリアリティに触れることによって、アウグスティヌスの探求は根底的な意味において新しい段階へと踏み入ってゆくことになったといえます。

私たちとしてはここで、一つの問いを改めて立ててみることもできるかもしれません。すなわち、2023年の現在において哲学することへと向かっている私たちにとって、『告白』を読むことは果たして何を意味するのでしょうか。

1927年にハイデガーが提起した「存在の意味への問い」はおそらく、哲学の営みそのものにとって決定的な重要性を持つものでした。しかし、この問いはその後にも十分な仕方で問われ、省察されることなく、いまだ解明されることのないままにとどまっています。私たちにとって「ある」とは、「存在する」とは何を意味するのだろうか。「ある」ことはありきたりで当たり前のこととして、何らの驚きをも引き起こさないような事柄に過ぎないのか。それとも、「ある」とは本当は何よりも問うべきもの、哲学の営みにとっての運命そのものに他ならないのであって、生きることの意味や、世界や人間が存在することの意味といったものもまさしくそこから折り開かれるようにして与え直され、根底から新しく生まれ変わるような「究極の襞」に他ならないのだろうか。「生きることの無意味」の問題をも含めて、人間存在が立てうるあらゆる哲学の問題が存在問題へと最終的には収斂してゆくのであるとすれば、私たちは、この「究極の襞」をこそ折り開くべく試みるのでなければならないのではないか。これらの点に関して、今の時点において断定を下すことは差し控えざるをえませんが、「存在の超絶」の理念を尋ね求めるようにして進んでいる私たちの『告白』読解は、こうしたことを改めて問い直す地点にまでたどり着きつつあるように思われます。

【おわりに】

「存在の意味への問いをあらためて設定することが必要なのである」というハイデガーの言葉は、『存在と時間』が公刊されてから百年近くが経とうとしている現在においても、なお新鮮なものとして響きます。ここで問題になっている論点は『告白』を読み解いてゆく上でも非常に重要なものなので、私たちとしてはじっくりと腰を据えて、一歩一歩進んでゆくことにしたいと思います。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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