【断片から見た世界】『告白』を読む 〈善〉とは何か?

〈善〉とは何か?:プラトン哲学の最内奥へ

私たちは「太陽の比喩」をめぐる考察を通して、プラトン哲学の最内奥のモメントに近づきつつあります。この比喩を理解するにあたって重要な箇所を、もう一度引用しておきます。

「『それでは』とぼくは言った、『ぼくが〈善〉の子供と言っていたのは、この太陽のことなのだと理解してくれたまえ。〈善〉はこれを、自分と類比的なものとして生み出したのだ……。』」

『国家』のこの箇所で語られていることはプラトンより何百年も後の時代を生きたプロティノスやアウグスティヌス、そして、哲学の歴史そのものにとっても決定的な意味を持つものでした。今回の記事ではこの箇所におけるプラトンの議論を検討することを通して、〈善〉なるものが哲学の営みに対して持つ意味について考えてみます。

〈善〉は、認識することそのものを可能にする

『国家』508E:
「それでは、このように、認識される対象には真理性を提供し、認識する主体には認識機能を提供するものこそが、〈善〉の実相にほかならないのだと、確言してくれたまえ。それは知識と真理の原因(根拠)なのであって、たしかにそれ自身認識の対象となるものと考えなければならないが、しかし、認識と真理とはどちらもかくも美しいものではあるけれども、〈善〉はこの両者とは別のものであり、これらよりもさらに美しいものと考えてこそ、君の考えは正しいことになるだろう……。」

視覚について、もう一度考えてみることにします。見ること、ものの形を把握することは、認識する主体と認識される客観的事物のもとで働く第三の次元である「光」の現前によって、はじめて可能になるのでした。光こそが事物の形を輝き出させるのと共に、目が自らの能力を働かせるのを助けています。そして、私たちの生きているこの世界においてはその光を発する源こそが、まさしく「太陽」にほかならなかったわけです。

認識に対する〈善〉の関係もこれと同じことなのであると、プラトンは言います。認識、あるいは思考は〈イデア〉の高みにまで到達するとき、地上の世界のただ中で迷い、さまよっていたそれまでのあり方を捨てて、一挙に「真実を見てとる力」としてのおのれの本性を露わにします。それは、人間の生き方そのものを根底から変えずにはおかないような「認識の光」による啓示なのであって、事物そのもののあり方が永遠の相のもとに示されるところの、観想の神秘です。思索者としてのプラトンが、思考することが持っているこの驚異的な働きのあり方を言い当てるためにたどり着いた言葉こそが〈イデア〉にほかならなかったといえます。

そして、〈光〉を通して輝き出てくるこの認識の働き、思考することの力はプラトンによれば、万物の根源に位置する〈善〉によってこそ、はじめてそれとして成り立っています。彼の説明によるならば、〈善〉こそが私たち人間存在の認識の働きを目覚めさせるのと共に、事物の全体に対しても、それを認識する可能性を与えています。このことは、私たちが見、知り、経験するこの世界のあり方を把握する可能性それ自体が、〈善〉という根源によって与えられていることを意味します。この見方によるならば、私たち人間には、いわば〈善〉によってこそ世界を見、知り、経験してゆくという恩寵が与えられているということになります(現存在の根本体制であるところの世界内存在は、世界内存在することを可能にする『開示することの根源』からの与えによってこそ、はじめて可能となる)。

哲学の営みには、「認識の根源」へと遡ってゆかなければならない必然性がある

問い:
それでは、〈善〉とは結局のところ何であるのか?それが快楽でも、単なる知識でもなく、むしろ「真実在そのもの」にほかならないとすれば?

この問いかけはおそらく、2022年の現在においてもなおアクチュアルなものであり続けていますが、ここでは20世紀を生きた哲学者である、エマニュエル・レヴィナスの〈善〉をめぐる解釈に触れておくことにしましょう。というのも、このコラムの筆者にとっては、レヴィナスの解釈は単に数ある解釈の中の一つということを超えて、解明しなければならない事柄そのもの、事象そのもののあり方を言い当てているように思われるからです。

思索者としてのレヴィナスは〈善〉の次元を、主体であるわたしの意識を無限にあふれ出してゆく〈他者〉の次元と同一視します。〈他者〉、あるいは隣人たちは言葉を語り、実存する一人の人間であるところのわたしがその無限の高みから語られる言葉を受け入れることによって、世界について語り出す「真理の言葉」が生起して、わたしを取り巻いている世界そのものの見え方、あり方を形づくります。その意味では、主体であるところのわたしの意識を超絶する〈他者〉が語る言葉こそが、わたしの言葉の世界の、また、わたしによって経験されている世界そのものの見え方の可能性の条件をなしているのであり、真理そのものの起源にほかならないと言えるのではないか。私たちが送っている日常の日々は、本当はそのような「『超絶』を通しての絶えざる生まれ直し」を介することによってこそ生きられているのではないだろうか。哲学の営みには、「〈他者〉が語る」というこの一見するとどうということのない事実のうちに含まれている真に驚異的なものを、〈善〉なるものの顕現として思索し直す必要があるのではないか。

レヴィナスのこのような〈善〉の解釈は、〈善〉をめぐるプラトンの思索がプロティノスの〈一者〉の思索へと引き継がれてゆき、その後に、一つの歴史的な運命としてのアウグスティヌスの思索が、それらを継承しつつも〈絶対他者〉そのものである神をめぐる哲学として突き抜けてゆくことを考えるならば、2022年の現在において哲学の尖端を考え抜こうとしている私たちにとっても、決して無視できないものであると言えるのではないだろうか。レヴィナスのこの解釈を元にしつつ、これ以上のことを掘り下げるのは別の機会に譲らざるをえませんが、いずれにせよ、一つのことだけは確かであるように思われます。すなわち、哲学の営みとは、それが真実の知恵の追求にほかならない限りにおいては、〈善〉へと、真理そのものの条件、「認識の根源」へと突き抜けてゆかざるをえない性質を持つものである。哲学の営みには、「私たちがものを見、知り、経験するとはいかなることか?」という問いに対して、あらゆるコモン・センスや出来合いの答えを退けつつ、始原そのもの、根源そのものへと遡ってゆかざるをえない必然性がある。〈善〉をめぐるプラトンの所見は、2022年の現在において哲学の営みへと駆り立てられている私たちに対しても、この根源に向かって思索し、逡巡し、思惟することの労苦をその果てに至るまで耐え抜くよう、一つの謎をかけている。

おわりに

「主を尋ね求める人々はすべてを理解する」と信仰の書は語っていますが、有限性を背負った人間存在に許される限りにおいてあらゆる物事の始原にまで遡ってゆきたいという限りない熱情が、哲学する人々をその実存の奥底から駆り立てていることは、今も昔も変わることはないものと思われます。私たちは引き続き、プラトン哲学における〈善〉の問題を追いつつ、『告白』におけるアウグスティヌスの探求を根源的な仕方で経験し直すための準備を進めてゆくことにしたいと思います。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

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