【断片から見た世界】『告白』を読む 自力の限界

剣闘士の見物で将来をだめにしかかっていたアリピウス

アウグスティヌスの年若き親友アリピウスは剣闘士の見物に夢中になるあまり、自分の将来を棒にふりかけていました。

「かれは、両親からたえず言い聞かされていたこの世の立身出世の道を捨てずに、法律を学ぶために、わたしよりもさきにローマに来ていたが、この地で剣闘士の見世物に信じられないほど熱中して、信じられないほど夢中になった。すなわち、かれはこのような見世物をいみきらって、そこに足をむけなかったが、たまたま、昼食から帰りがけの友人や同級生に途中で出会った……。」

この友人たちとの間に起こった出来事で、彼は持病(?)であった競技場狂いの病を再発させてしまいました。今回の記事では、この辺りの事情について見てみることにします。

「君たちは、僕の心と目をあの見世物に向けることはできない……。」

時は少しさかのぼって、アウグスティヌスがローマにやって来るよりも少し前、彼と同じタガステの出身であった青年アリピウスが、先にローマで法律の勉強に励んでいた頃のことです。「なあ、剣闘士見物に行こうぜ!」と誘ってきた同級生たちに向かって、アリピウスは次のように凛として言い放ちました。

アリピウスの言葉:
「君たちは、僕の身体をあそこに引っぱっていっても、僕の心と目をあの見世物に向けることはできない。僕はあそこに行っても行かないのと同様である。君たちにも見世物にも勝つだろう。」

これより前、故郷に近いカルタゴで、競技場中毒から来る生活の限りない混沌をすでに経験していたアリピウスは、その病を一度克服した経験を持っていました。「僕は、病を乗り越えたのだ!」という自信のあった彼には、もう何があっても自分の心は揺るがないという確信があったのでしょう。悪友たちに連れられて競技場の中に入っていった時の彼の姿は、実に毅然としたものでした。

最初のうち、アリピウスは目を閉じて、全精神を統一していました。僕の心は、何が起ころうとも動かされることはない、本場のローマの剣闘士だろうと、僕は少しも惑わさることはないのだというわけです。

けれども、途中から観客たちの大歓声が聞こえてきて、少しだけ気になって目を開けてしまった瞬間に、すべては崩れ落ちました。すなわち、そこで行われていたのは彼の心を無我夢中にさせる、血湧き肉躍る白熱の戦いだったのであって、アリピウスは気がつくと同級生たちと一緒になって大声を上げ、我を忘れて、かつての誓いも完全に忘れ去っていたのです。彼はこうして、アウグスティヌスがローマにやって来る頃には元通り、重度の競技場狂いへとすっかり逆戻りしていたのでした。

Roman painter with columns with 3d effect

自分の力だけでは、「新しい人間」として生き始めることはできない

アリピウスの失敗の原因は、「自分には誘惑に打ち勝つ力がある」と過信してしまったことにありました。人間にはおそらく、自分にとって「ここだけはいかんともしがたい弱点」といったような角度からの誘惑がやって来てしまった時には、それを毅然としてはねのけるだけの強さはありません。ある意味では、近づけてしまった時点で負けは確定してしまうので、危ないものは普段からできるだけ遠ざけておかなければなりません。

アリピウスの場合でいうならば、「剣闘士見物に行こうぜ!」と誘われた時点で「退け、サタン」と断っておいたなら、誘惑をかわすのはもっと簡単だったことでしょう。青年アウグスティヌスが悩んでいた情欲の問題であっても、おそらく事情は同じなのであって、ひとたび小悪魔的な性格の持ち主のオードリー・ヘップバーン(話が生々しくなりすぎるのを避けるため、ここでは女性の名前は外国人にしておくこととします。行きがかり上、男性視点から論じることをご容赦ください)が部屋の中に入り込んできてしまったら、もう終わりなのです。毅然とした生き方を貫きたい男性ならば、そもそも最初からオードリーを部屋に近づけないか、あるいは最悪、近づいてきてしまった場合であっても、入口付近で丁重にお引き取りを願うかのいずれかにしなければなりません。とにかく、何があってもオードリーを部屋に入れてはいけません。

本題に戻ると、「自分の力だけでは『新しい人間』として生き始めることはできない」というのは、『告白』の物語を貫く根本モチーフの一つになります。

すなわち、アリピウスやアウグスティヌスは迷える日々の中で自分自身の経験から、痛いほど思い知らされたのです。真実な生き方、このように生きるべきだといった目標の生き方があったとしても、自分たちにはそれを実際に実現するだけの強さがない。わたしには何をするべきかが分かっているのに、わたしはそれにも関わらず、全く反対のことを行っている。彼らは、「なぜ変われないのだろう」「なぜわたしはいつまでも弱いままなのか」という悩みを、共に悩み続けていました。この解決不能の袋小路、どうしようもない「実存の泥沼」から抜け出すことの不可能性というテーマが、『告白』の道行きの至るところで鳴り響いています。彼らが自己を超える〈他者〉の存在に出会い、愛と赦しの真実な力に触れる時まで、彼らは今しばらくの間、「真実な生き方」をめぐって悩み続ける必要があるようです。

おわりに

「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」という経験を経た人はおそらく、他の人々の弱さにも同情し、優しく接することのできる人間へと変えられてゆくのではないだろうか。アリピウスとアウグスティヌスはこの後も、互いの悩みを分かち合いながら「真理の探求」を続けてゆくことになります。私たちとしては、その探求の様子を引き続きたどってみることにしたいと思います。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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