【哲学名言】断片から見た世界 アウグスティヌスの「哲学への目覚め」

知恵の探求への目覚め:キケロの『ホルテンシウス』体験

情欲に囚われながらも、この世での成功を夢見ていたアウグスティヌスですが、19歳の時に読んだある本がきっかけで、人生の転機が訪れることになります。その本こそが「哲学の勧め」を主題とする、キケロの『ホルテンシウス』にほかなりませんでした。

「さて、キケロの書物は、哲学へのすすめであり、『ホルテンシウス』とよばれる。この書物こそ、じっさいに、わたしの情念を一変し、わたしの祈りをあなた自身にむけ、わたしの願いと望みとをまったく新しいものとしてしまった。すべての空しい希望は、わたしにとって突然いやしいものとなった……。」

今回の記事では、この本を読んだ経験が、若きアウグスティヌスに与えた衝撃について考えてみることにしたいと思います。

19歳の頃のアウグスティヌス

まずは、当時の状況を確認してみることにします。故郷を離れてやって来たカルタゴで弁論術を学んでいたアウグスティヌスは、学校で主席を取るほどに優秀な成績を収めていました。

アウグスティヌスはもともと知性の働きが活発で、口が達者な人間に生まれついていました。弁論術の学校ではまさしく水を得た魚のように頭角を現し、法廷で立派な演説を行うための勉強を重ねてゆきます。当人の回想によれば、その時期の彼は「喜んで得意になり、虚栄心のためにふくれあがっていた」、つまり、かなり調子に乗ってしまっていたようです。

ただし、そんな彼にも、学校の中で注目を浴びて校内に君臨する(?)ことなどは、到底できませんでした。というのも、彼が通っていた学校では、悪さをしながら女の子たちとも仲良くし、得意になって遊びまわっている、いわゆる「格好のいい悪者たち」が頂点の座を占めていたからです。成績はいいけれども、周囲からいじられたりしないかびくびくしながら大人しく勉学に励みつつ、隠れたところでは情欲に荒れ狂っている……。アウグスティヌスも、現代のどこにでもいる若者たちと同じような、「スクールカーストが高いわけではない優等生」の一員だったようです。

アウグスティヌスがキケロの『ホルテンシウス』に出会ったのは、まさにそのような生活を送っていた、19歳のある日のことでした。課題図書であったキケロの著作を読み進める中で、哲学への入門を促すこの本に心を打たれたのです。それは、後々まで鮮明に記憶に残ることになる、「哲学との出会い」の出来事に他なりませんでした。

『ホルテンシウス』は、アウグスティヌスに未曾有の生き方を提示した

アウグスティヌス本人も回想の中で述べているように、キケロという人は、心の方の完成は率直に言ってそれほどでもなく、従って、哲学者としても第一級であるとはなかなか言いにくい人物でした。言葉の雄弁という点で紛れもないスーパースターであったことは確かですが、アウグスティヌスが読んだ『ホルテンシウス』も、「哲学の入門書としてはこれしかない!」というほどの傑作ではなかったものと推測されます(注:キケロの『ホルテンシウス』は、現在では書名と一部の断片のみが伝わっている)。

しかし、すでに述べたように、この本が青年アウグスティヌスに与えた感銘は非常に大きなものでした。「わたしは信じがたいほどの熱情をもって、知恵の不滅をしたい、あなたのもとに帰ろうと立ち上りはじめた。」少し後の箇所では、彼は「あのキケロの書物は、この知恵の愛でわたしの心をもえたたせたのである」とも言っています。『ホルテンシウス』は、それまではこの世での成功を夢見ていた青年の心に火をつけて、これまでとは全く別の方向を目指す生き方に向かって彼を駆り立て始めたのです。その方向を示す名こそ「哲学」、あるいは「真実の知恵の探求」にほかなりませんでした。

二千年以上にわたって続けられてきたこの哲学という営みには、不思議な所があります。この営みも虚飾から、「人から賢いと思われたい」という欲望からは完全に自由ではありません。しかしながら、その一方で、哲学の営みは常にこの世で一定の位置を占め、「そういうものもあるらしい」と多くの人に知られながら、前途有望な若者たちの将来を次々と狂わせて、「真実の知恵の探求」という果てしのない道へと引き込まずにはいないのです。アウグスティヌスの『ホルテンシウス』体験は、後に彼がこの「知への愛」に突き動かされて人生の道を歩んでゆくことになる、その第一歩をしるしづけるものでした。以後、この「知への愛」の炎は彼が「ローマ時代末期の『精神の偉人』、アウグスティヌス」としての生涯を終えるまで、決して消え去ることはないでしょう。

おわりに

この『ホルテンシウス』読書の後には情欲も、この世の成功への願望も消えたのかというと全くそんなことはなく、彼は情事の相手を絶えず求め続けると共に、さらに後には弁論術の教師としての一大ブレイク(!)を求めて、当時の世界の中心であるローマへと旅立ちもします。しかし、アウグスティヌスの人生の道行きは彼自身の思惑や願望を超えて、ゆっくりと時間をかけて彼自身の「最も固有な存在可能」に向けて整えられてゆきます。私たちの『告白』読解もその一つ一つの歩みをたどり直しつつ、十年以上後の「取って読め」の瞬間を目指して進んでゆくことにしたいと思います。

[今回の記事では『告白』の記述に従って、アウグスティヌスの「哲学への目覚め」の出来事をたどり直しました。先人たちがさまざまな苦悩や欲望に悩まされながらも、知恵の探求の道を最後まで歩み通した様子には、現代を生きている私たちの胸を熱くさせるものがあります。私たちに近い時代でいうと、たとえば、日本を代表する哲学者の一人である西田幾多郎も、私的な文章においては「今日はつい、間食しすぎた……」「私だって、本当は海外に留学して注目を浴びたりしたかった」等々といった意味のことを書き残しており、非常に人間味のある人だったことが伺われます。ただし、重要なのは彼らの弱さだけではなく、さまざまな弱さを抱えながらも、「真実の知恵の探求」の道を最後まで歩み通したというその事実の方であると見ることもできるのではないか。『告白』読解もまだしばらく続きそうですが、アウグスティヌスが紆余曲折を経て、「本来のおのれ自身」を獲得してゆくための道行きに付き合ってくださるなら、筆者としてはこれ以上の喜びはありません。]

 






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