【哲学名言】断片から見た世界 青年期アウグスティヌスと「情欲の問題」

青年期に入ったアウグスティヌス

アウグスティヌスは、16歳になりました。彼は32歳の時に「取って読め」の経験によって回心しますから、実存に決定的な変容が起こるその時までは、これからなお10年以上もの時が残っていることになります。彼はこれから、極めて長い「闇の時代」をくぐり抜けなければなりません。

「わたしは、自分の過去の汚れたふるまいと肉にまつわるわたしの魂の堕落を想起しようと思う。わたしは、それらの不潔なことを愛するからではなく、わたしの神よ、あなたを愛したいからである。わたしは、あなたの愛を愛すればこそ、そういうことをなすのである。わたしは、思い出のにが味をなめながら、わたしが迷ってきた邪悪な道をふりかえる……。」

この連載も、青年期の彼を最も大きく惑わせ、苦しめた「情欲の問題」について語り始めなくてはならない時がやって来ました。今回は『告白』のテクストを読み解きながら、この問題への導入を試みてみることにしたいと思います。

典型的な「放蕩息子」の道へ:アウグスティヌスは、いかなる種類の人間であったか

16歳になり、学問の学びもますます本格的なものになろうとしていた時期のアウグスティヌスは、周囲の人々から将来を期待されていました。彼の父はそれほど豊かなわけではなかったとはいえ、彼のために学費を捻出し、未来の栄達に望みをかけます。弁舌の才能に恵まれていたアウグスティヌスは、「この青年はきっと立派な人間になるに違いない」と、皆から思われていたのです。

ところが、後になってみると分かるように、すでにこの頃から「魂の堕落」の過程はゆっくりと始まっていました。「わたしは、肉親の年齢16歳のとき、わたしはどこにいたのであろうか。[…]じっさい、わたしは肉欲に支配されて荒れ狂い、まったく、その欲望のままになっていた。」彼の年齢を考えると、性に対する関心が高まるのも無理はないような気もしますが、あと数年が経つと、実際の「不純な関係」が始まることになります。

周囲の大人たちは、彼の知的な面での優秀さと、ある種のコミュニケーション能力の高さゆえに、彼はもう大丈夫だろうとたかをくくり、生活上の様々な面においては、ほとんど口出しをすることがありませんでした。ただ一人、信仰心の篤い母だけは、「姦淫をしてはいけない!」と彼に時折警告していたようですが、その当時の自分には彼女の言葉はほとんど耳に入ってこなかったと、アウグスティヌスは『告白』において回想しています。彼は、愛らしさと人懐っこさもなくはなかったものの、学歴の高さゆえに放っておかれたために魂の道に踏み迷ってしまったという意味では、典型的な「放蕩息子」の一例であったと言うこともできるかもしれません。

性愛の経験においては、ほとんど倫理的とも言うべき超絶の経験と、まなざしが作り出す地獄とが、見分けもつかないままに入り混じっている

それでは、彼がこれから大いに迷わされることになる「情欲の問題」の本質とは、どこにあるのでしょうか。ここでは、彼自身が回想の中で用いている「わたしは愛の明るい輝きと肉欲の暗い曇りとを見分けることができなかった」という表現に着目しつつ、この問題に対する足がかりを作るべく考えてみることにします。

性愛の関係においては、二人の人間と人間が、他の関係ではありえないほどに親しく接近してゆきます。恋し、愛し合う二人はほとんど生きることそのものを共有するかのようであり、他の誰でもない一人の人間であるところの「わたし」は、「わたし」自身の存在を超える他者であるところの「あなた」と、この上なく深い関係を結びます。性愛の経験はこのようにして「存在の超絶」へと近づくのであってみれば、この経験が一面において、紛れもない真実の経験であるのは確かです。

しかしながら、この経験は同時に、まなざしと欲望が作り出す地獄のうちに、自分でも気づかないままに引きずり込まれてゆく経験でもあるのではないか。「わたしは、わたしのまなざしの内に映るあなたのイメージを、わたし自身の存在以上に愛する。」人間主体が、鏡の審級が作り出す幻の次元のうちへと巻き込まれてゆく性愛の関係は、主体自身を破壊しかねないほどの狂おしい衝動でもって、その人を突き動かさずにはいません。「愛の明るい輝きと肉欲の暗い曇りとを見分けることができなかった」というアウグスティヌスの表現は、この意味からすると、実存の極めて危機的な状態を的確に言い表すものであることがわかります。性愛の経験においては、何が真理であり何が非真理であるのか、何が現実であり何が幻であるのかの見分けがつかないままに、人間は、自分自身が作り出したまなざしと欲望の壊乱状態のうちに巻き込まれてゆき、しかも、その状態を「真実の状態そのもの」と思わずにはいられなくなるのです。これは『告白』のこの後の主要モチーフでもありますが、人間存在にとってはおそらく、一片の紛れもない真実を含んだ決定的な誤謬ほどに、人生を大きく踏み迷わせるものもありません。アウグスティヌスはこれから、この地獄が作り出す炎によって焼き尽くされることになるでしょう。

おわりに

「姦淫をしてはいけない」という掟は、後のアウグスティヌスにとってはほとんど圧倒的な重みをもって彼自身の実存にのしかかってくるものでしたが、この時代の彼にとっては、この掟自体がいまだ存在していないかのようでした。ところで、「掟など存在しない」と高ぶる人間は、自らが作り出す魂の地獄のうちで苦しむことによってその代価を支払わなければならないというのが、人間存在の抱えている運命のようです。私たちは、とりあえずはこの「情欲の問題」を後にして、次の問題の方に進むことにしたいと思います。16歳の青年であった彼の心を惑わせたもの、それは、「盗むことへの欲望の問題」でもあったからです。

 

[人が人を愛するということほど貴重なこともないので、今回の記事で取り上げたようなアウグスティヌス的なものの見方は、非常に極端なものに思われる向きもあるかもしれません。同じ哲学でも、たとえばプラトンの『パイドロス』や『饗宴』などでは、恋について、大分異なったニュアンスで論じられています。しかし、性愛の経験が作り出す危機的なモメントについて考え抜いておくことは、この経験をまさしく破滅的なものに貶めてしまわないためにも必要なことなのではないか。論じるべきことは多々ありそうですが、「情欲の問題」は『告白』の主要モチーフの一つであるため、この後も引き続き考え続けてゆくことにしたいと思います。最近では、Twitterの方でリアクションをいただくことによって議論が深まっていますが、感想・コメント等ありましたらぜひお聞かせください。]

 






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