10月28日は正宗白鳥の召天日

 

今日10月28日は正宗白鳥(まさむね・はくちょう)の召天日。明治から昭和にかけて活躍した小説家です。

岡山に生まれ、幼い頃から死の恐怖を持っていたため、13歳の時に自ら聖書を買い求め、岡山孤児院の石井十次のもとに行くなど求道を続けます。また、内村鑑三の処女作『基督信徒のなぐさめ』を紙の破れるまで繰り返し読み、感化を受けました。「愛する者の失せし時」など、逆境にあるキリスト者の見いだすべき慰めは何かを問うた魂の自叙伝とでも言うべき書です。

そして、東京専門学校(後の早稲田大学)に入学し、18歳で日本基督一致教会・番町教会(現在の日本基督教団・富士見町教会)の植村正久(うえむら・まさひさ)牧師から洗礼を受け、日曜学校の教師もしました。

しかし22歳のとき、「キリスト教は苛烈な宗教であると思うようになった。殉教を強いられるようだ」と言って棄教します。ただ、文芸評論家の小林秀雄によると、「白鳥のキリスト教信仰は、世間でいうように、青年時代にキリスト教に入ったが、ずっとキリスト教を離れていて、また老年になってキリスト教になったのではなく、いつも白鳥の心の底にあったものだ」(高見沢潤子『兄 小林秀雄』新潮社)。

1962年、膵臓がんのため、飯田橋の日本医科大学付属病院で死去しました。83歳。白鳥は死の半年前、植村正久の娘で日本基督教会・柏木教会牧師だった植村環(うえむら・たまき)に葬儀を依頼しています。山本健吉『正宗白鳥──その底にあるもの』(講談社文芸文庫)には、夫人と環の証言をもとに次のように書かれています。

2週間、環は毎日のように病室を訪れ、賛美歌を歌い、聖書の話は十数回に及びました。死の1週間ほど前、白鳥は環の手を握りしめ、「国木田独歩が死の直前、植村正久に祈るように言われたが、祈れないと言って泣きだした」と話し、環の顔をじっと見て「アーメン」と言います。環が「先生は今さら懐疑でもないでしょう」と声をかけ、復活を疑った弟子のトマスにイエスが言った言葉「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)を語ると、「私は単純になった。信じます。従います」と安心しきった顔で答えたというのです。

山本は次のように書いています。

氏は回心したのではない。回心する必要がなかった。なぜなら氏は、終始キリスト教徒だったから。だからこそ、氏は終始キリスト教への懐疑を口にせざるをえなかった。無神論者なら、一度口にすればすむことだ。氏の考えは、何時も神の存在に戻ってくる。

 






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