6月13日「救われる者には神の力」

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。(コリントの信徒への手紙I 1章18節)

「十字架の言葉」とは、キリスト・イエスの十字架を通して罪の赦(ゆる)しを宣言する神の言葉である。しかし、この言葉は「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(23節)である。つまり、利得を求める者には腹の足しにもならないつまずきであり、人間の知性を絶対と思う者には愚かである。なぜ神は人間が歓迎もしない罪の赦しを語られるのか。それは、神に罪を犯して無意味な存在となった人間と、人間の罪のために暗闇に覆われた世界を救うためである。神は人間の罪を解決するという方法で、ご自身が創造した人間と世界を御手に取り戻される。私たちに生きる意味が失われ、平和な社会に生きている実感がないのは、人間の罪が解決されていないからである。

今日の聖句は、「十字架の言葉」の宣教により、人間は信じて救われる者と信じないで滅んでいく者とに分かたれる事実を語っている。神の御子が罪のために死んでくださった、その命をかけた神の愛が迫る時、生き方を方向転換して、神の愛に応える人間が生まれる。神は罪に満ちた世界を一挙に変えてしまう方法ではなく、十字架の言葉の宣教により、罪を悔い改めて神の御心(みこころ)に応える新しい人間を創造する。そして、時が満ちたとき、御国を成就される。十字架の言葉は、「わたしたち救われるものには神の力」である。十字架の言葉を信じる私たちは、神の御子の中にあり、神の栄光のために生きる者である。この世においては絶えざる罪との戦いがあるが、神が味方なので、私たちは罪を恐れず大胆に神に従う。十字架の言葉は、私たちの人生を変える神の力である。

内藤淳一郎

内藤淳一郎

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。

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