6月3日「それを見たら、信じてやろう」

代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」(マルコによる福音書15章31〜32節)

処刑場に着くと、主イエスの手と足は大きな釘で十字架の木に打ち付けられた。十字架の上には「ユダヤ人の王」という罪状書きが付けられた。主イエスの右と左に二人の強盗も十字架につけられ、ゴルゴダの丘に三本の十字架が立った。十字架刑はローマへの反乱者に適用され、死刑囚は死ぬまで数日間に亘(わた)って苦しむという見せしめの刑であった。

十字架にかけられた主イエスを見て、誰も彼もが蔑(さげす)み、冒頭の言葉のように叫んだ。私たちもその場所にいたら、このように叫んだのではなかろうか。「信じてやろう」という信仰は、自分の願う通りにしてくれたら信じるという条件付きの信仰である。神を崇(あが)め、謙遜に神に従う信仰ではない。この人間の倣慢(ごうまん)な罪が罪のない主イエスを十字架につけたのである。

主イエスは神の力を現さず、十字架にかけられたまま、人々に嘲(あざけ)られている。この人は「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」(イザヤ53・2)。無力な主イエス。人々はこのような無力な主イエスを神の御子と信じることができない。「十字架から降りろ」という声は今日でも強い。あるいは十字架にかけられた主イエスを、罪を贖(あがな)う救い主ではなく、他者の弱さに連帯する愛の人であると言う人々がいる。また、十字架抜きの力ある主イエスを説き、病気の癒しなどの奇跡を看板にする教会がある。しかし、主イエスは私たちの罪を贖うために、決して十字架から降りなかった。

内藤淳一郎

内藤淳一郎

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。

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