3月9日「わたしにしてくれたことなのである」

はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイによる福音書25章40節)

主イエスは終わりの日の神の審判について語った。今日の聖句のように、王である神は他者の助けなしに生きられない最も小さい者を「わたしの兄弟」と呼び、その兄弟を助けた人たちに、「お前たちは、わたしが飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸のときに着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれた」と言う。終りの日、神はこの人々に「神の国を受け継ぎなさい」と言い、反対に、最も小さい者に何もしなかった人々には「永遠の火に入れ」と言う。

私たちは神の国を受け継ぐ人間だろうか、それとも永遠の火に入れと言われる人間か。主の言葉の前で、自分が愛の貧しい人間、神の御心に応えていない罪人であると知る。まさに、この自分こそ助けを必要とする「最も小さい者」であることに気づかされる。自分が「最も小さい者」であると気づく時、そのような者を「わたしの兄弟」と呼んでくださる主イエスの愛が迫って来る。主の愛に慰められ癒(いや)されて、私たちもまた助けを必要としている隣人のために生きるようにと促される。自分にできることは水一杯を差し出すという小さなことかもしれない。しかし、主の愛が私たちを隣人のいる場所に押し出すのである。「もし私たち自身がキリストに触れることなく、人々に触れるなら、空しく感じるでしょう。...キリストが私たちを選び、私たちを遣わされるのです。私たちが貧しい人たちにしている奉仕は、神の愛の語りかけです。ですから、神の愛と切り離して、私たちの働きはありません」(マザー・テレサ)。

内藤淳一郎

内藤淳一郎

西南学院大学神学部卒業後、日本バプテスト連盟の教会で牧会、鹿児島大学哲学科のカトリックの神学の学びから、鹿児島ラ・サール高校でも教える。日本バプテスト連盟宣教室主事、日本バプテスト連盟常務理事を8年間務める。

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