【クリスチャンな日々】第30回 イエス様は離乳食の名人 〜たとえ話のたとえ話〜

主の御名をあがめます。

MAROです。この連載もなんと30回目になりました。嬉しいことです。今回もまたつらつらとお相手させていただきます。よろしくお付き合いくださいませ。

先日、友人に子どもが産まれました。それでお祝いに何かを贈ろうと思ったんですけど、産まれてからしばらく経っていましたから粉ミルクも違うかもしれないと思いまして、離乳食を贈ることにしました。最近の離乳食のカタログは面白いです。昔ながらの「カボチャ」とか「リンゴ」は当たり前なんですけど、「レバーシチュー」だとか、「鮭チャーハン」だとか「焼き鳥」だとかの離乳食もあるんです。赤ちゃんにあげるよりも、僕の食欲が刺激されてしまいました。
さて先日、マタイの福音書の13章を読んでいたのですけれど、ここはイエス様のたとえ話のオンパレードです、「種まきのたとえ」から始まって、「毒麦のたとえ」「からし種のたとえ」「パン種のたとえ」「畑の宝のたとえ」「真珠のたとえ」「地引き網のたとえ」「学者のたとえ」と、58節の間に8つものたとえ話をしています。そして、「私は彼らにはたとえ話でしか話さないよ、君たちにはそれ以外で話すけど」という、とても大切なことを言っています。

たとえ話というのは、たとえるなら離乳食のようなものです。赤ちゃんは歯がありませんから、固い食べ物は食べることができません。それで、歯がなくても食べられるように、柔らかくしたものを食べさせます。イエス様がこのマタイの13章の中で「あなたがたには天の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません」と言っているのは、「君らは歯があるから固いものでも食べられるけれど、彼らはまだ歯がないから離乳食しか食べられないでしょ」と、言っているわけです。

イエス様はこのマタイ13章に限らず、福音書全般において、とてもよくたとえ話をしています。イエス様は、聖書の真理は人間にはなかなか分かりにくいものなのだと、知っているんです。だからこそ、たとえ話にしてかみ砕いて、時には離乳食のようにドロドロにして、人々に語るんです。イエス様はたとえ話の名人、すなわち離乳食作りの名人であるわけです。

キリスト教を伝えるときだけでなく、他の様々な場面においても、普段からたとえ話の練習をしておくことは、いろいろな人とコミュニケーションをする上で大切なことだと思います。聖書はその練習にも役に立つわけです。イエス様の名人芸にたくさん触れることができるのですから。

イエス様のたとえ話はどれも秀逸ですけれど、とはいえさすがに2000年も前の話ですから、今の時代にはピンとこない話も多いです。パン種のたとえにしたって、今これを学生や子ども達にしても、「パン種」って何?ということになってしまいますし、パンを自分で焼いたことのない人だってたくさんいますから、どうしてもピンとこない話になります。でも、イエス様の時代には、パンは誰もが日常的に自分で焼くものでしたから、それはちょうど僕たち日本人が毎日炊飯器でごはんを炊くようなものでしょうから、そのたとえは誰もがピンとくるものだったのだと思います。

右頬を叩かれたら左頬を出しなさい、というのは誰もが知る有名な箇所ですけれど、今の若い人たちは殴り合いのケンカなんてしたことがない、親にも叩かれたことなんてない、という人も多いんです。だから頬を叩かれると言ってもピンとこない。そこで僕は、ここの箇所を解説するときは「雪見だいふく」の話をしたりします。

二個入りの雪見だいふくを買った時に、見知らぬ人から「一つちょうだい」と言われましたと想像してみてください。友達ならともかく、知らない人には一つだってあげたくないですよね。でもイエス様はそこで、一つと言わず、二つともあげてしまえ、と言うんです。あなたはあげられますか?

・・・と、こんな話をしたりします。ずいぶんと話が日常的な、下卑(げび)たものになってしまうようにも思いますが、いいんです。たとえ話はなるべく日常的なものの方が分かりやすいんです。どうせたとえ話にするなら、徹底的に分かりやすくしてしまおうと、僕は常々思っています。中途半端にやると、面白くもないし、分かりやすくもない、という最悪な結果になってしまったりしますから。

たとえ話って、世の中をよく観察していないとできません。何かと何かの類似点を見つけるのがたとえ話の肝ですから。聖書を読めば、確かに世の中を理解する助けになります。一方で反対に、世の中を観察することが、聖書を理解する助けにもなります。神様のことばと、神様のつくったこの世界。この両輪を行ったり来たりしながら、楽しく生きたいなと思います。

もちろん、時には噛み砕かれたものばかりじゃなくて、堅いものも食べないと、丈夫な歯は育ちませんけどね。レビ記とか申命記とか黙示録とか、聖書の中でも読みにくいと悪名高い箇所も、スルメと思って噛んでいればだんだん味も出てくるものです。

それではまたいずれ。
MARO
でした。

主にありて。

横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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