【クリスチャンな日々】第15回 「正解でありますように!」と祈る傲慢 MARO

 

主の御名をあがめます。MARO です。

今週もしばしお相手させていただきます。よろしくお願いします。

テレビのクイズ番組なんかを観ていますと、解答者が答えを言った後に、「正解でありますように!」ってお祈りをするようなシーンが時々ありますよね。ちょっとひねくれた見方なのかもしれませんけど、先日僕はそんなシーンに「あれ? おかしいな」って疑問を抱きました。祈るなら、答えた後ではなく、答える前が正しいんじゃないかなって思ったんです。

たとえば「1+1」って問題が出されたとして、当然正解は「2」ですけど、解答者が「3」と答えて、その後で「正解でありますように!」って祈ったとしたら、ちょっとおかしいなと思いませんか。いくらそこで祈ったところで、この問題の正解である「2」が「3」に変わることはありません。祈るとしたら、答えを出すための計算をする時に「計算ミスをしませんように!」のほうがいいはずです。

極端に言ってしまえば、このタイプの祈りは、「世の中の真実が、自分に都合のいいように変わりますように!」という祈りなんです。だから僕は違和感を覚えてしまったんです。クイズの解答者の祈りとしては、答えを言う前に、「私に正しい答えを導き出す知恵を与えてください」というのが正しいと思ったんです。

ルーベンス「ソロモンの審判」

旧約聖書に登場するソロモン王は、神様から「何でも好きなものをあげるから言ってみなさい」と言われて、「知恵をください」と答えました。それで神様は「その心意気やよし!」と、彼に知恵を与え、ソロモンは世界の誰よりも頭のいい王になりました。

ソロモンはクイズで言うならば、答えを言う前に「正解を導き出す知恵を与えてください」と祈るタイプだと言えます。もしソロモンが、答えを言った後に「正解でありますように!」って祈るタイプであったとしたら、きっとこんなふうに祈ったでしょう。「私の国が、ひいては世界が、私の思ったとおりになりますように」

世界のあり方や真実に自分の知恵や思いを合わせるのではなく、自分の知恵や思いのほうに世界のあり方や真実を合わせようとする。クイズ番組の話から思いっきり飛躍してしまいますが、これが「己を神とする生き方」で、聖書では人間の最も根源的な罪とされるものです。

ちなみにソロモンも、晩年はかなり傲慢(ごうまん)な性格になってしまい、「私の思いどおりに私の国を動かして何が悪い!」とばかりに暴政を繰り返して国を疲弊させてしまいました。知恵というのは、ただあれば良いというものではなく、その使い方が大切だということですね。

それはたとえば刃物と同じです。刃物は人の知恵の産物ですが、知恵そのものも刃物と同じです。使い方によって人を生かしもすれば殺しもするものです。そして、その「刃物」をどのように使っているかは、意外と「祈りのタイミング」で見えることもあるのかもしれません。

でも僕はそこで、「あの人の祈りのタイミングは間違ってる! だめじゃん!」なんて言う気はまったくありません。そうではなくて、自分の「祈りのタイミング」を反省してみて、「1+1の答えを2じゃなくて3にしてください!」というような祈りをしていないか、チェックすることが大切だなと思ったんです。

そうやって己を振り返ってみると、意外とやってしまっているんですよね、「1+1=3」の祈りを。「真実よりも自分の望みのほうが大切」という祈りを。神様、この傲慢の罪を隠さず、ここに告白します。僕の心より、あなたの御心と真実がなされますように。アーメン。

「自分は正しい。自分に真実のほうがついてくる」という信念や生き方を持っている方もきっといるでしょうし、それを否定もしません。かっこいいとさえ思います。でも僕にとってはそれよりも、「真実に寄り添える知恵をください」という生き方のほうが幸せなので、そっちを目指したいと思うんです。そう考えたほうが、僕には「真実」がとても魅力的に輝いて見えて、「これを追いかけたい」と思えるんです。

あの、誤解なきように重ねて言っておきますが、僕はクイズ番組とか、その解答者さんとかを批判するつもりはまったくありません。だって、答えた後に祈りたくなる気持ち、とてもよく分かりますし、もし僕がその解答者であったら、たぶん同じように祈ってしまいますもの。いえ、もはや、自宅のリビングで番組を観ながら、僕もそのタイミングでつい祈ったりしてしまいますもの。だからもし僕がその番組や解答者さんを「傲慢だ」と批判するなら、その批判は僕自身にクリーンヒットしてしまいます。まさに見事なブーメランです。

むしろ、そんなことを気づかせてくれたクイズ番組に感謝していますし、普段からよく楽しませていただいています。ありがとうございます。

「小学生レベル」の理科の問題に打ち負かされて打ちひしがれつつ。

それではまたいずれ。MARO でした。

主にありて。

横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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