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一日で100cmの積雪を、帯広教会に居た時に経験したことがある。40~50cmの積雪を見て、すぐに雪かきを始めたが、雪は降り続き、数メートル程雪かきして振り向くと、再び膝辺りまでの積雪。その繰り返しだった豪雪の日であった。あれこそまさに「大雪」だった。でもそこは雪国、道路は一部で少し渋滞があったものの、公共交通機関は普通に動き、いつものような冬の中の生活が淡々と続いていたことを記憶している。
昨年夏、第5波の中で東京都台東区では不燃ゴミの収集が止まった、19人が陽性、26人が自宅待機となったからである。2週間の収集停止後、苦情を覚悟した職員たちだったが、待っていたのは「いつもありがとう」「今日のゴミは重たくてごめんなさい」と貼られた感謝の手紙であった。「誰が社会を支えているのか、コロナ禍で誰の目にも明らかになった。」(以上1月4日朝日新聞「未来のデザイン」より)エッセンシャルワーカーという言葉を意識するようになったのも、コロナ禍があったからであった。私(たち)の生活を支えてくれている人々なのに、感謝するどころか目を注ぐこともしてこなかったのではないか、社会がもちろん私が!危険な雪道「夏タイヤであろうと出掛けなければならない」、渋滞の中のほとんどの方々がそうなのだろうと思うと、パソコンの前で仕事をすることが出来ている私には、今は感謝と労りの思いしか浮かんでこない。
主イエスの眼差しは、当時の社会を支えている人々、即ち多くのエッセンシャルワーカー(当時はそのような概念はなかっただろうけど)にこそ向けられていた。社会を支えているにもかかわらず報われない状況であったからだ。それは現代も変わらない、新聞の記事はそのことも報じていた。彼らが報われる社会になるために、私に何が出来るかを考えていきたい、「社会を本当に支えている人々」に感謝しつつ。