【毎週日曜連載】神さまが共におられる神秘(109)稲川圭三

自分の十字架を負うとは

2017年7月2日 年間第13主日
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
私のために命を失う者は、それを得る
マタイ10:37~42

今日の福音に3回、「ふさわしくない」と言われています。

「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。また、自分の十字架を取って私に従わない者は、私にふさわしくない」(マタイ10:37~38)

そう言われると、突っぱねられ、拒絶されたような、「どうせ自分なんか駄目だ」と思ってしまうかもしれません。

でも、この「ふさわしくない」という言葉は、ギリシア語で「アクシオス」という単語が使われています。それは「天秤(てんびん)計り」のことで、「ふさわしい」というのは「同じ重さ」という意味合いです。

ひっくり返して言うと、こういうことです。

「父や母よりも私を愛する者は、私と同じ重さ」

「息子や娘よりも私を愛する者は、私と同じ重さ」

「自分の十字架を担って私に従う者は、私と同じ重さ」

「弟子であるあなたたちは、私と同じ重さだ」とイエスさまはおっしゃっているのです。

イエスさまの重さとは、イエスさまをお遣わしになった父である神さまの「永遠」という重さです。だから、今日の福音の後半でこう言われます。

「あなたがたを受け入れる者は、私を受け入れ、私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。……私の弟子だということで、この小さな者の一人に、冷たい水を一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(40~42節)

つまり、こういうことです。

「弟子であるあなたがたを受け入れる人は、私を受け入れるのだ。私を受け入れる人は、私をお遣わしになった永遠の父を受け入れるのだ。なぜならあなたがたは、私と父である神と同じ重さだから。キリストの弟子だという理由であなたがたに冷たい水一杯でも飲ませる人があれば、必ずあなたがたのその重さにその人もあずかるんだ。そう言われるまでにあなたがたは、私と父である神さまと同じ重さなのだよ」

こうイエスさまはおっしゃっているということです。イエスさまはその重さに結ばれていたので、私たちにも「その重さにいつもあずかるように」と教えておられるのです。

前半のイエスさまの言葉に戻ります。

「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。また、自分の十字架を取って私に従わない者は、私にふさわしくない」

この3つをまとめると、こういうことになります。「イエスよりも父や母、息子や娘を愛することは、自分の十字架を取ってイエスに従わないことなのだ」

これをひっくり返すと、「自分の十字架を取ってイエスに従うとは、父や母、息子や娘よりもイエスを愛することだ」となります。

「父や母よりもイエスを愛する」とは具体的にどういうことなのか分かりません。それで、「自分の十字架を取って私に従う」ことから考えてみたいと思います。

「自分の十字架」とは「自分がどうしようもなく負っている重荷」と考えるかもしれませんが、そうではありません。

イエスは確かに苦しみを受け、十字架の上で死なれました。しかしイエスの十字架とは、ただ苦しみを負うこと、苦しみに耐えることとは違いました。

イエスは十字架の上で、「父よ、彼らをお赦(ゆる)しください。自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)と祈られました。彼らは何を知らないのでしょうか。自分の内に神さまが一緒にいてくださることを知らないと祈られたのだと思います。

しかし、イエスは知っておられました。それで、自分を殺そうとする者の中にも神のいのちがあることを見て、その真実の中に入っていかれたのだと思います。

これが、イエスが負われた十字架です。つまり、どのような人の中にも神が共におられるというまなざしが、イエスの負われた十字架なのだと思います。

今日の福音の中に、「命を失う者は、それを得る」とあったでしょう(39節)。

イエスは十字架の上で、自分のいのちではなく、人のいのちの中に神のいのちがあることを見て、そこにご自分のすべてを引き渡し、そこで死に、そして復活されました。これが「命を失う者は、それを得る」ということです。

つまり、私たちが「自分の十字架を取ってイエスに従う」とは、自分のまわりにいる人の中に神さまのいのちがあることを見て、祈って生きることです。だから、父や母、息子や娘の中に神さまが共にいてくださることを認めないなら、イエスを愛することにならないでしょう。

「父や母、息子や娘よりもイエスを愛する」とは、その人の中に神さまが一緒にいてくださることを認めること。それがキリストを愛することであり、本当の意味で家族を愛することだと言えるでしょう。そしてそれが、自分の十字架を取って従うことだと思います。

稲川 圭三

稲川 圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう) 1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員をする。97年、カトリック司祭に叙階。西千葉教会助任、青梅・あきる野教会主任兼任、八王子教会主任を経て、現在、麻布教会主任司祭。著書に『神さまからの贈りもの』『神様のみこころ』『365日全部が神さまの日』『イエスさまといつもいっしょ』『神父さまおしえて』(サンパウロ)『神さまが共にいてくださる神秘』『神さまのまなざしを生きる』『ただひとつの中心は神さま』(雑賀編集工房)。

この記事もおすすめ