【発達障害クリスチャンのつぶやき】 「感謝して献金をおささげください」?

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数年前の話になります。あるプロテスタント教会の、週報(毎週、教会が作っている礼拝の式次第&お知らせ)に、献金のお願いについて次のように書かれていました。「本日、聖餐にあずかれた恵みに感謝して、東日本大震災支援献金をおささげください」。そのすぐ下には、「神の恵みに感謝して、イースター献金をおささげください」とも。

「○○に感謝して、△△献金をおささげください」が連続している、という感じを受けました。もちろん、献金というのは記載のとおり「感謝して」ささげるものです。でも、感謝というのは週報から(教会から)強制されるものではないはずと思ったわけです。逆に、感謝できるような教会であるなら自然と献金はしたくなるものです。

もちろん、本当に教会員が献金をしぶっているから週報にそう書かざるを得ないという面はあります。特にその教会は規模が大きめだったので、「信徒一人ひとりが教会を支える」という意識が希薄だったという面があったことも知っています。でも、「感謝して献金をおささげください」が強調され過ぎている印象は否めません。

もっと気になったことがあります。「本日、聖餐にあずかれた恵みに感謝して」という文面です。「聖餐(式)」というのは、キリストの体であるパンとぶどう酒をいただく儀式で、通例では信者だけが参加するものです。でもその教会は、信者でない人の参加も黙認している教会でしたので、そういう書き方ができるのでしょう(つまり、だれでも聖餐をいただけることを前提とした書き方)。しかし、その教会もさすがに「信者でない方も、どうぞあずかってください」とアナウンスすることはありませんでした。

するとどうなるか。信者でなくて、しかも「信者でなければ、すなわち洗礼を受けていなければ、聖餐をいただくことはできない」という一般的なルールを知っている人(たとえば親がクリスチャンで、自分は洗礼を受けていない人が、大学生になって引っ越しをして、一人でその教会に通い始めたケースとか、あるいはいろいろな教会に出没していて、そのルールを知っている非信者の方など)は、聖餐を受け取らないのではないか。そして、そういう人が週報の文面を見ると、聖餐式に参加できない自分は東日本大震災支援献金はできないのか、と感じる気がします。私も似たようなことで経験がありますが、こういう些細なことで疎外感を感じるケースは案外少なくありません。

この場合、東日本大震災の募金は週報に載せる必要もなく、礼拝堂の出口で募金箱を持った人が献金を募ればいい気がします。それなら、その日の聖餐式と関係なく、かえってささげやすいのではないでしょうか。

教会って、この手の事例に満ちている気がしませんか? こういうことを書き始まると、際限なく「あれもおかしい、これも変ではないか」ということばかりになりますので、あえてこの記事はここまでで終わりにします。教会の悪口みたいになってしまい申し訳ないのですが、決してその教会を悪く言うつもりはなく、少しずつでも改善していけるのではないかと思って書いてみた次第です。

腹ぺこ 発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。

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