【新春鼎談】回顧と展望 〝逆風〟吹き荒れる中、伝統宗教と専門メディアの行く末は?(後編) 桜井智恵子×塚田穂高×丹羽宣子

 2023年の宗教を取り巻く状況を振り返りつつ、「カルト的」団体だけでなく伝統宗教も抱える今日的課題、宗教メディアへの期待と要望などについて、専門分野の異なる3氏が語り合った。

【出席者】
・桜井智恵子 さくらい・ちえこ(関西学院大学大学院教授、教育社会学、本紙「論壇2.0」執筆者)
・塚田穂高 つかだ・ほたか(上越教育大学大学院准教授、宗教社会学)
・丹羽宣子 にわ・のぶこ(中央学院大学非常勤講師、宗教情報リサーチセンター研究員、本紙「宗教リテラシー向上委員会」執筆者)

■聞かれてこなかった声

――宗教社会学という分野から重なる部分はありますか?

塚田 「保護者ファースト」という話を聞いて、強い発言権を持つ者の声に耳を傾けるバイアスという共通項として受け止めました。「宗教2世」問題で言えば、やはり1世、親世代の熱心な信仰者で子どもを教化したいという側の体験談、証言ばかり聞いてきたのだと。では、教化を受ける側の子ども世代はどうだったのか。仮に2世の話を教団・教会経由の調査で聞いたとしても、やはりうまくいった事例が中心。結局は、うちの家族はこんな感じでうまくいきましたとか、そういう例ばかりを聞いてきたのではないか。そのバイアスによって排除されてきた声に耳を傾けなければ、「2世」問題も包括的に捉えられないと改めて思いました。

――「幸せな2世だっている」「別にそんなに苦しんでいない」とか、「『宗教2世』はみんな不幸だというレッテル貼りはいかがのものか」という熱心な信者からの反応は本紙にも届きましたが、そうではないと。

塚田 「幸せな」信者の方の声は、教団・メディア・研究などがむしろ散々取り上げてきたと思うんですよ。2023年は、ノンフィクション作家である最相葉月さんの『証し 日本のキリスト者』(KADOKAWA)も話題になりました。教派の異なる100人以上の「証し」を集めた労作と思う一方、やはり教会に通っている人の話なんですよね。もちろん、これらはとても重要なライフストーリーですが、教会から離れていても別にアンチとは限らないですし、その多様な「信者周辺」的なあり方が「日本のキリスト教」の広がりを構成しているのだとも思いました。

『証し 日本のキリスト者』著者・最相葉月さんインタビュー 無名の信仰者に光を 6年で135人から聞き書き 2023年4月1日

――コロナ禍以降、特に顕著ですが、教会に通わないクリスチャン、自己認識として信仰は持って
いるけれども教会とは距離を置くという人は多くなったと思います。それはやはり教会のシステム
が社会と合わなくなっているという問題でもある。塚田さんのおっしゃるバイアスの一端は、宗
教メディアが担ってきてしまった部分も大きいと思いますが。

丹羽 宗教の研究をするとか、宗教者にインタビューしようとすると、どうしても中核的信者層にアプローチしがちという問題があります。彼・彼女らの周りにいる周辺部の人たちも含めての教団組織、信仰共同体だという視点がおそらくメディアにも、私たち研究者にも足りていない。また、特に宗教メディアの場合、どうしても「うまくいっている宗教者の話」が紹介され「いい話」に回収されがちな傾向はあると思います。

以前、宗教情報リサーチセンター(RIRC)が発行する「ラーク便り」で東日本大震災から10年の節目に、宗教専門紙が当時から現在までを振り返る記事を整理したことがあって、その時もさまざまな場で活躍されている宗教者を紹介した記事を読みました。そうした活動はとても尊いことですし、報じる意義もあります。でもその中で「キリスト新聞」だけ異色だったんですよね。「いい話」に回収されない、被災地で葛藤する牧師や信徒の話を取り上げていました。私も福島の出身なので、大手メディアが報じているものと、両親が見ていたものが違うことは地元の肌感覚で知っています。いい話だけでも、救われた話だけでもないのが被災地の現実。だからこそネガティブな内容も含めて紙面で取り上げられたのは、とても意味のあることだと思います。自分だけが苦しいわけじゃなかったんだと思えるだけでも、心の支えになりますよね。

――ありがとうございます。一方で、「伝道に資する新聞であれ」といった読者の要望、要求、誤解もあるようなので、その辺は非常に難しい。逆に長期的な意味ではまさに教会のため、キリスト教のためにもなると思ってはおりますが。

■制度批判と支援主義の落とし穴

桜井 メディアの限界で言うと、制度批判に終始してしまう左派メディアの論調に危うさを感じることがあります。2016年に国会で可決された、不登校の子どものための「(多様な)教育機会確保法」が審議された時に、参議院で参考人として反対の意見を述べたのですが、フリースクールがすべて文科省の傘下に覆われてしまうし、すべてつながって、それぞれのありようが教育的なものに回収されかねませんと警鐘を鳴らして、それよりも学校の今のひどい状況を緩める方が先決ですと話したんですが、朝日新聞をはじめ在京の研究者たちも「もっと制度を、もっと支援を」という論調でした。今、私の予言したことがすべて当たっていて、教育産業がフリースクールを押しのけて不登校児や障害者支援に参入してきているんですね。拙著『教育は社会をどう変えたのか』(明石書店)の副題に掲げた通り、「個人化をもたらすリベラリズムの暴力」そのものです。

塚田 「宗教2世」問題への対策を議論する際も、当然「制度」や「支援」という言葉は使われがちなので、考えさせられます。公的な通達や方針、制度整備はもちろん強力なのですが、それ頼みだけでよいのか。「カルト」対策の国家機関を作ろうという意見に、諸手を挙げて賛成してしまうような危うさにも通じるかもしれません。

――教会も、子ども食堂とか被災地支援とか、目に見えて分かりやすい活動に傾倒してしまいがち
な側面はありますね。

塚田 宗教の「公益性」「公共性」はもちろん大事ですし、社会的な感覚は必要だと思います。しかし、一連の統一協会問題を経て、社会にとって役に立つ自分たちは違うということを示す、その競い合いのようになってしまうと、本末転倒かなと。「宗教は本来、反社会的」とは思いませんが、ある種、「宗教性」、宗教の大切さ、大切なところは厳しく守り抜く。こびず、なびかず、抵抗するところは抵抗する。同時に、近代社会の中の宗教として、基本は人権や自由、生命尊重というところに立脚すべきと外部からは思いますので、そこは教団としても宗教者としてもきちんとやっていく。社会性、公共性も担保しつつという、その両面性のバランスが求められていると思いま
す。

丹羽 特に宗教法人法をめぐる議論の中では公益法人として役に立つことが求められるような風潮があって、ラディカルな活動が減退した代わりに、公益に資するという面においては貪欲にさまざまな取り組みをしているのが最近の状況だと思うんです。ただ、ジェンダー平等やセクシュアリティの問題に限ってみても、宗教教団自体が、異性愛とか伝統的家族観をシステムの中に組み込んで成り立っている中で、そこへの批判、内省が十分でないまま平等のメッセージを外に発信することの違和感を覚える場面も少なからずあります。

■やめられる勇気と回収されない「活躍」

塚田 グローバル化を受けて、学校教育では多様な宗教文化への理解を深める教育がなされ、宗教的背景を持つ子どもたちへの配慮も求められています。他方で、2022年末の厚労省「宗教の信仰等に関係する児童虐待等への対応に関するQ&A」は、そうした宗教的背景による教化が虐待となる可能性について注意喚起するものです。両者はぶつかり合いそうなものですが、学校現場は混乱もなくほぼ無風状態であるのはなぜでしょうか?

桜井 むしろ現場は、個別対応に追われ過ぎて配慮することだらけで混乱し続けています。2010年の学習指導要領改正でカリキュラムが変わった上で、全国学力調査のため無理にでも教え込まないといけないという状況をやめない限り、他の新しい何かを入れ込む余地はありません。個別で競争させ、クラスで競争させ、学校でも競争させるので、社会的な弱者とか、何が構造的にきつくしているかという大事なことを考える余裕がまったくありません。このままでは学校も保護者も、生活も壊れるというPTAからのSOSが来て、都内の学校にもお話にうかがいますが、みんな本当に限界に近づいている。

――それは、冒頭でご紹介いただいた子どもの自死の問題とも関係するということですか?

桜井 まさに。ですから今必要なのは、何かをやめることです。明日、子どもたちと健やかに過ごすために、5時半以降の仕事をどんどん拒否する。保護者にも理解してもらうような働きかけをしながら、「これは無理です」「これは大事なことではない」ということを、口に出して言うように連帯しています。制度改善というよりも雰囲気改善ですね。

――教会の現場でも、やめられずに延々と続けて疲弊していく事例をたくさん見聞きしてきまし
た。

塚田 やめられる勇気、ですか。部活動のあり方、「ブラック部活」の問題にもつながりそうですね。

桜井 そうなんですよ。日大アメフト部と関西学院大学がトラブルになった時、被害にあったアメフト部のメンバーも「子どもと権利」という私の授業に出席していたんです。それで、授業で学生たちの気持ちを教えてもらうと、日大の加害者とされている彼をどうやったら救えるかという話になったんですよ。それはすごく強くなって勝たなければならないという圧力が、いかに働いているかという内容でした。部活の論理とか、体罰とか、先輩との関係とか……。

丹羽 今日のお話を聞いて、宗教界もですが、宗教と社会の関係性が問い直されている状況があるのだから、もう少し立ち止まりつつ、大きな構造的問題を見据えて評価したり、検証したりする余地は研究者サイドにもあると改めて思いました。

(全文は紙の紙面で)

【新春鼎談】回顧と展望 〝逆風〟吹き荒れる中、伝統宗教と専門メディアの行く末は?(前編) 桜井智恵子×塚田穂高×丹羽宣子 2024年1月11日

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