【映画】 物語る奇跡のちから 『聖なる証』

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19世紀半ばアイルランド内陸の僻村へ、ひとりの英国人看護師が訪れる。すでに4カ月なにも食べず生き延びている少女がそこにはいた。カトリック信仰に篤い村人たちから「奇蹟が起きた」と目される事態の証人となることを期待された看護師はしかし、少女の健康状態が悪化するなかで真実を暴こうと決心する。

看護師は、当時最新のナイチンゲール式看護術を学んでおり、感覚よりも手順や数値を重視する仕草が劇中でも再現される。その科学的姿勢と真っ向から対立するのは村の有力者である男性たちだ。あたかも裁判官のように居並ぶ司祭や医者、家主といった男たちを前に、ひとり抗う看護師女性という構図が劇中幾度もくり返される。

さて本作では冒頭で、物語の外に立つ女性のナレーションによりこう語られる。

 「これは始まり。これから『聖なる証』の物語が始まる。これから皆さんが出会う登場人物たちは、自身の物語を全身全霊で信じている。だから皆さんにも信じてほしい。時代設定は1862年、英国を出発しアイルランドへ向かう。大飢饉の深い傷が今も残る地。アイルランド人は英国の責任だと避難した。看護師が座っている。イングランド人の看護師だ。独り旅路につく。彼女とともに物語が始まる」

本作が類稀なのは、このナレーションのあいだ水平移動を続けるカメラが、合板と鉄パイプからなる舞台美術の外観や照明器具や撮影クレーンなどを無造作に映しだし、本来なら舞台裏であるはずの撮影スタジオを映画の序盤で観客へさらけだす点だ。物語世界をメタレベルで語る視線を作品内へ盛り込む手法は、一般に「第四の壁を破る」と呼ばれ演劇・映画分野においてしばしば試みられる。それは主として観る者に驚きを与え、作品へ相対的な異化効果をもたらす余興として用いられるが、本作においてこの演出はより本質的であり、セバスティアン・レリオ監督が具える表現性の核を貫いている。

『聖なる証』の舞台は、百万人を超える犠牲を出し、大量の人口流出を生んだジャガイモ飢饉(1845~49年)の後遺症で社会が反動化しゆくアイルランド内陸の村である。反英感情にあわせ、地主や富裕層に多いプロテスタントに対する反感も高まり、民衆のカトリック回帰が進むさなかである。「食べずに生き続ける聖女の奇蹟」に村人らが希望を見いだすのも、少女の兄の不在をはじめとして物語の端々に死の昏い影がつきまとうのも飢饉の残滓といえる。またナイチンゲール本人も携わったロンドンのナイチンゲール看護学校設立は1860年で、酒場の場面では主人公看護師のクリミア従軍に触れる台詞も交わされる。一方カトリックが勢力を強めるこの村では、医者でさえ看護師の科学的な所見よりも聖女の誕生に期待をかけており、神父は傲慢なほど鷹揚に構え事態を見守っている。

こうして看護師が孤軍奮闘するなか、畑で農作業中の農婦と言葉を交わす場面がある。背の高い農婦は気丈でかつ、村社会の空気に染まらずどこか超然とした佇まいを醸しだす。鋤を振り上げる腕を休め、主人公看護師へ「あなたが信じる科学主義もまた一つの物語でしょう」と言う農婦との会話は、物語の肌合いとはおよそ無縁の抽象性をたたえている。会話が終わり看護師が場を去ると、農婦はカメラを直視しこう言い放つ。「私たちは物語あっての存在だ」と。第四の壁が唐突に破られる。

実は冒頭の〝物語の外に立つ女性のナレーション〟も、この農婦役に扮するアイルランド人俳優ニアフ・アルガーによるものだ。彼女は終盤にも再度農婦姿で現れ、スタジオセットのバックヤードを背にカメラへ向かい語りかける。そこは明らかに21世紀現代であり「看護師と少女の物語」の外部である。と同時に、あくまで映画『聖なる証』の内部であるその場所から、『聖なる証』のさらに外側へ座す観客へと語りかける。

彼女の存在はいわば「第n+1の壁を破る」ベクトルを具えるが、こうした作品世界における神的視座の投入は、セバスティアン・レリオ監督の初期作『グロリアの青春』ですでに現れている。この2013年のチリ映画では主人公の高齢女性が終盤で、夜闇に羽を広げる白亜の孔雀と見つめ合う。この場面で主人公は後頭部しか映されず、その後頭部もやがて脇へ退き、白亜の孔雀が不意にカメラを見据える。むろん孔雀は言葉をもたず、直前直後の狂騒に満ちた音楽もそこでは途絶え、完全無音の神的時間がスクリーン全体へ憑依する。2018年の同監督によるハリウッドでのリメイク作『グロリア 永遠の青春』では、孔雀の場面が消される代わりに、当該の箇所で主人公を演じるジュリアン・ムーアがダンスしながら一瞬手首で鳥の首のような動きをみせ、つづいて全身で鳥の動きを模倣するように回転し始める。ハリウッド流プロデュースへの、監督ないし演者による抵抗の痕跡がここに観測される。前後へリズミカルに振られる鳥の首の動きは、『聖なる証』ラストにおける農婦の台詞「In… Out… In… Out…」にも重なる。

では『聖なる証』において、農婦役の俳優はなぜ物語の外側へ出て語る必要があったのか。ここをうまく受け取れないと、これらのメタ演出は単なる蛇足、アートフィルムにはありがちな監督の余技へ堕したものに映ってしまう。

まず言えるのは初期作から一貫して、それが監督の信仰告白であるということだ。たとえばチリ人監督セバスティアン・レリオのハリウッド進出第1作『ロニートとエスティ 彼女たちの選択』は、シナゴーグでの教説中のラビ(ユダヤ教指導者)の死が物語の起点となる。超正統派ユダヤ・コミュニティの掟を侵し、事実上の村八分となって放逐されたラビの娘の愛と信仰を描くこの物語では、冒頭で出エジプト記からの引用を交え、人間の選択の自由を説くラビの言葉が全編の主題となり、その継承者であり主人公とは三角関係にある青年が映画の終盤で再度くり返す。冒頭と終盤で主題が明示的にリフレインされるこの構図を、『聖なる証』では農婦役俳優が一人でこなす。

彼女は強調する。物語を信じる力こそ、奇跡なのだと。だから信じる対象が十字架であれ、科学や身近な誰かであれ、信じる営みそのものを丁寧に。という物語へ観客を包みこむ。という物語を彼女は語る。語る主体の審級はこうして自在に移りゆく。これに従い、観る主体もまた瞬時に審級の変更を迫られる。ここで2010年のチリ大地震時に刑務所を脱走した男と、動物園の檻から解き放たれた虎との邂逅を描くレリオ監督2011年作『デストロイ8.8』は、冒頭に聖書の次の節を示すことが想起される。

 「ここで、あなたがたに秘義を告げましょう。私たち皆が眠りに就くわけではありません。しかし、私たちは皆、変えられます。終わりのラッパの響きとともに、たちまち、一瞬のうちにです」(コリントの信徒への手紙一15章51、52節)

『聖なる証』冒頭で、舞台セットの人工性を目にしながら、そのセットが再現する船内で食事を掻きこむ看護師役フローレンス・ピューの旺盛な演技へ即座に入り込んでしまう己に観客の多くは内心驚かされるだろう。まさしくそのようにして、観る者は「この自分」という物語へ入り込んでいる。それらうつし世の底で息を潜ませる、不可視の己の気配に気づかされる。チリ史上初のアカデミー賞外国語映画賞を獲得し、一躍世界にレリオ監督の名を知らしめた2017年作『ナチュラルウーマン』においては、恋人の突然死により予期せぬ差別や偏見に直面するトランスジェンダーの主人公を、あたかもヨブへ与えられた試練であるかのような強風が不意に襲い、感情移入する観客の現実感覚もまたその一瞬烈しく煽られる。これは人々による差別と偏見に苦しむ者の物語なのだと示されたあと、耐えに耐えた主人公のみせる感情爆発に、観客は演技を超えた言絶の凄味を覚えることになる。セバスティアン・レリオが振る舞う、マジックリアリズム演出の極みである。

そうして少女は、少女を救いたい一心で看護師がつむぎだした物語に救われる。この『聖なる証』終盤において、少女を腕に抱く看護師の姿はバプティスマを授ける洗礼者ヨハネのようであり、夜更けに荒野の2人を目撃した修道女の語りはキリストの復活劇そのものだ。映画のなかほどで少女は聖人のカードをめくり、看護師へ音楽の守護聖人・聖セシリアや盲目と目の保護聖人・聖ルチア、純潔の守護聖人・聖アグネスらを紹介しながら、私は聖カタリナが好きだと言う。聖カタリナは夢の中で、聖母マリアによりキリストと婚約させられ(神秘の結婚)、彼女にしか見えない指輪を幼子イエスから授けられたという。物語る潜勢力。物語られる主体の私。セバスティアン・レリオ監督は、映画を通して物語る自らの営みを、かつて南米を席巻した社会主義と独裁者の時代、いままた排外的な傾向を示し始めた政治状況に対する核心的な抵抗運動のひとつの形と捉えている。

コロナ禍の今日、何を信じるかをめぐり人々が反目し合う一方で、AIの深層学習により映像も音もそれがあるだけではもはや何も証明され得ない時代へと突入した。重要なのは、何を信じるのか、だけではない。どのように信じるか、こそがいま真剣に問われている。

(ライター 藤本徹)

参考文献: Eric Kohn, “Florence Pugh and Sebastián Lelio on the Battle Between Religion and Science in ‘The Wonder’” Indie Wire, 2/Sep/2022
Agencia EFE, ““El prodigio” en Netflix: 3 claves de la nueva película de Sebastián Lelio con Florence Pugh” El Comercio Perú 18/Nov/2022

引用文献: 『聖書』聖書協会共同訳 日本聖書協会

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