警策と暴力 東島宗孝 【宗教リテラシー向上委員会】

2020年、臨済宗円覚寺派の大本山・瑞鹿山円覚寺の専門道場(僧侶が修行する施設)では「警策(けいさく、きょうさく)」が廃止された。警策とは禅宗(日本では黄檗宗・曹洞宗・臨済宗)の道場で用いられる木製・板状の法具である。本来は「悟っていないものを警(いまし)め、修行が進んでいないものを策(はげ)ますことば」という意味であったが、江戸時代以降に法具として導入された。

坐禅中に僧侶が警策を持って練り歩き、参禅者を叩く情景は、坐禅の「厳しい」「叩かれる」というイメージを定着させてきた。警策の意味付けは各道場でさまざまだが、身体に刺激を与えることで注意散漫や眠気の原因となる妄念から本来集中するべき「呼吸」に意識を戻すためのものと説明されることが多い。その警策の廃止は、継承されてきた伝統を重んじる禅宗にとって非常に衝撃的な事柄といえる。

廃止について、円覚寺の横田南嶺管長と対談した佐々木閑氏の記事(2020年12月4日付「日本経済新聞」)を参照すると、その理由は通念よりも釈迦の教えを優先すべきという信念であるという。同管長は警策で叩くことは伝統として歴史が浅いとした上で、「他者に手を挙げてはならない」という釈迦の想いに反することであるとする。それはどんな形であっても他者に手を挙げてはいけないということであり、居眠りする僧侶の存在を認めず棒で叩いて起こすことは暴力の肯定につながる危険性を含んでいると述べたという。

事実、禅宗では体罰に対する世論の高まりに連動して道場内の指導体制をめぐった議論がたびたび行われてきた。例えば、2013年~2018年の間に3回開催された黄檗宗と臨済宗の、指導と暴力・体罰の違いをテーマとした会議では暴力行為の要因や修行僧の感覚の変化について討議が行われた。その中では警策での過度の指導についての疑問も提起されており、指導者が対話を心がけることで暴力を回避することなどが確認されている。また、曹洞宗や臨済宗妙心寺派では専門道場での人権についての議論も行われている。今回の円覚寺の判断も専門道場内での人権意識の高まりへの同調といえる。

一方で禅宗の修行の根幹には「自我」を徹底的に壊し、本来の自己(仏心)に気づくという観念がある。ここで言う自我は、あくまで禅寺での用法だが、妄念により恣意的に色づけられた世界の認識といえる。禅宗の祖師の逸話の中に叩いたり、叱責したり、瞬間的な衝撃を弟子に与える場面が多いことも見性(悟り)には自我や思索を通じては到れないとする思想に依拠している。

例えば、臨済宗の祖である臨済義玄が師の黄檗希運に3度棒で叩かれ、その後僧侶の高安大愚にその意味が分からなかったことを叱責された際、悟った話は有名である。そういった意味では上記の暴力的で破壊的な指導は禅宗の修行において一種のイニシエーション的な意味を持ち、入門してきた修行僧の迷いを払い、新たな次元に移行させる機能をもってきたともいえる。

警策は修行が停滞した際に刺激や区切りをもたらし、軌道修正をする一種のスパイスのようなものといえる。しかし、スパイスも過剰に摂取すれば毒となる。その意味では伝統の継承が重視される組織の中で毒となってしまった警策の廃止は英断といえるかもしれない。しかし、警策自体が坐禅の場において肯定的な意味をもってきたことも否定できない。警策が健全に機能する組織・空間を作り出すことの必要性、そして時代に適合した「自我の壊し方」の模索によって禅堂修行のあり方は変わっていくだろう。

東島宗孝(宗教情報リサーチセンター研究員)
ひがしじま・しゅうこう 1993年神奈川県生まれ。慶應義塾大学院社会学研究科博士課程在籍中。論文に「『伝統』としての禅の解釈と軋轢―臨済宗円覚寺における泊りがけの坐禅会の事例から」(『人間と社会の探求』)がある。

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