【宗教リテラシー向上委員会】 聖俗の垣根を越えて 池口龍法 2020年11月11日

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ハロウィンとこの原稿の締め切りがほぼ重なったために、慌ただしさの中で執筆をしている。お寺とハロウィンは本来関係ないはずだが、小学校に通う私の子どもたちにはそんな理屈は通用しない。私が出先からお寺に戻ってくると、友だちがお寺に集まって仮装パーティーが開かれていたこともあった。今年はいっそのこと私も楽しもうと、アニメ『鬼滅の刃』のコスプレグッズを取り寄せた。子どもたちの衣装は通販が間に合わなかったので、本稿を書いている今もお寺の座敷でせっせと作られている。ハロウィンの喧騒が終わったら、しばしの休息を経て、次に待ち受けるのはクリスマスである。

お寺によっては、住職が「仏教にはクリスマスはありません」と子どもに言い聞かせ、サンタクロースの立ち入りを断固として拒むところもある。しかし、私の知る限り、世の習いとしてクリスマスを祝うお寺が多数派である。私の家庭にももちろんサンタクロースはやってくる。

いや、ハロウィンやクリスマスを楽しむぐらいのルール違反は、かわいらしいものかもしれない。もっとひどいことに、お坊さんは生涯独身を貫くのが仏教のルールなのに、日本ではまったく顧みられない。食生活も、修行中こそ精進料理だが、終わってしまえば世間の人々となんら変わりはなく、お酒も平気でたしなむ。聖職者の節操などどこ吹く風である。

だから、日本仏教を研究している海外の研究者はよく、「日本の仏教は日本に行かないとわからない」と指摘する。経典を読む限りでは、お坊さんは、異性と触れ合うこともなく、食生活もつつましく、娯楽にも近づかないという極めてストイックな生き物である。それなのに、聞こえてくる日本のお坊さんの生活は正反対で、俗世の人々となんら変わりがない。日本に来て初めて、お坊さんが形式にとらわれないがゆえに、世間の暮らしに自然に溶け込んでいることを知る。ハロウィンの時は一緒に仮装に興じる。時には深夜までお酒を交わしながら語らい合う。それぐらい日常の中に入り込むからこそ、聖俗の垣根を越えて、片時も離れず共に光の差し込む方角を眺められる。これは日本仏教の大きな魅力である。

浄土宗を開いた法然は、「この世は念仏を申しやすいように過ごしなさい」と言った。「妻子がいてもかまわないし、土地財産を持っていてもかまわない」と世の習いを認めつつ、「それがために念仏がおろそかになってはいけない」と釘を刺している。細かいことでとがめたりはしないから、仏教徒としての心は常に忘れないようにとの諭しである。これほど優しいようで厳しい言葉はない。

修行生活時代を思い返すなら、厳しい規律の中に身を置いて生活するのは、一見苦しいようでありながら、慣れてしまえば楽である。心を乱すものが何もないからである。むしろ、ハロウィンやクリスマスなどをはじめ、どんな風習も懐を広くして受け止めながら、その中でブレない生き方を示していく方がよほど過酷である。

もっとも、私の懐は、ハロウィンを広い心で受け止めて散財し過ぎたせいで、寒風が吹いている。この後に控えるクリスマスをどれだけ派手にやるかが、実に悩ましい。お坊さんという生き物が、こんな俗っぽいものだとは自分でも意外だったが、波乱に満ちた日々はなかなか楽しい。神仏の光を常に感じていれば、悩み苦しみに揺さぶられながらの日々も、心の奥まで闇に包まれることはない。そんな風にしなやかに生きていたい。

池口龍法(浄土宗龍岸寺住職)
いけぐち・りゅうほう 1980年、兵庫県生まれ。京都大学大学院中退後、知恩院に奉職。2009年に超宗派の若手僧侶を中心に「フリースタイルな僧侶たち」を発足させ代表に就任、フリーマガジンの発行などに取り組む(~15年3月)。著書に『お寺に行こう! 坊主が選んだ「寺」の処方箋』(講談社)/趣味:クラシック音楽

 

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