10月7日 コリントの信徒への手紙二5章13節

わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。
コリントの信徒への手紙二5章13節(参照箇所同書5:11〜15)

パウロたちは、あの人たちは変だと思われていまのでしょう。なにしろイエスという人が死んで復活した、それによって人間は罪から赦(ゆる)されるなどということを大真面目で話しているからです。何も知らない人が聞けば、なんだそれはと思うのは当然のことでした。ですからパウロは言うのです。「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであった」と。

合理性と実証性をもって、真実とすることに慣れた、現代人もまたキリスト者の語ることには、同じことを感じるでしょう。その意味では、キリスト者であって、世の中から変だと思われているとしたら、キリストを信じる信仰を語っている証拠として感謝すべきです。

もしわたしたちが、どのようなお方によって信仰者と変えられたかを大真面目に話すなら、それを聞く世の中の人は、変な人だと思うはずです。変と思われなければ、かえって変だと思うべきです。もともとキリストの福音は、世の中に受け入れられるようにはできていないのです。キリストが「平和でなく、剣を投ずるためにわたしは来た」言われた言葉を今一度思い出すべきです。世の中が変だと思うことで、福音によるチャレンジが起っている証拠です。

賀来 周一

賀来 周一

1931年、福岡県生まれ。鹿児島大学、立教大学大学院、日本ルーテル神学校、米国トリニティー・ルーテル神学校卒業。日本福音ルーテル教会牧師として、京都賀茂川、東京、札幌、武蔵野教会を牧会。その後、ルーテル学院大学教授を経て、現在、キリスト教カウンセリングセンター理事長。

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