9月30日 コリントの信徒への手紙一15章35〜36節

しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。
コリントの信徒への手紙一15章35〜36節(参照箇所同書15章35〜49節)

人は「死者はどんなふうに復活するのか」と問います。「どんなふうに」とは人が物事を探求するときに問う問い方ですが、物事の根源を問う問いではありません。人はどのようにして地球はできたのか、どのようにして人間は生まれるのかという、物事の生成の過程を問う問い方に慣れていますが、物事の根源を問う問いには納得する答えがないと思い込んでいるからです。

本当は、なぜ死者は復活するのか、なんのために復活するのか、という根源的な理由と目的を問う問いがあってよいのです。

パウロは「どんなふうに」という問いに対して、改めて根源的な答えをもって返しています。「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し・・・」(42節)と言います。人の死がキリストの命にあずかることによって、相対的なものが絶対的なものに、有限なるものが永遠なるものにと、ついには究極的なるものへと変えられると言っているのです。

有限の死から究極的な命への移り変りを最も切実に望む者は、死に臨んでいる人々です。そこには復活のキリストを信じる信仰があって初めて今日を生きる命があります。

 

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