【断片から見た世界】『告白』を読む 「実存の本来的生起」

「ミラノの見神」から、回心の出来事へ:アウグスティヌス『告白』の核心に向かって

私たちは、哲学の探求を通してアウグスティヌスが〈存在〉そのものに出会った「ミラノの見神」体験を検討することを経た後に、「ある」をめぐる問題圏を踏査してきました。この体験について、アウグスティヌスの『告白』には次のように書かれていたのでした。

「そこでわたしは、『真理は有限の空間にも無限の空間にもひろがらないから、無であるのではなかろうか』とたずねた。そうすると、あなたははるか彼方から、『わたしは存在するものである』と叫ばれた。わたしはこの声をあたかも心で聞くように、聞いたので、疑いの余地はまったくなくなり、『造られたものによって悟られ、明らかに知られる』真理の存在を疑うよりはむしろ自分が生きていることを疑ったであろう……。」

今回の記事からは、「歴史性」の問題に引き続いて、新たな問題圏に光を当てることになります。同時に、この新たな問題圏を掘り下げてゆくことは、アウグスティヌスの『告白』の道のりをさらに先へとたどってゆくことをも要請することになるはずです。

1927年に出版された『存在と時間』においては、「決意性」の分析は、存在問題の解明にとって必要にして不可欠なものとして捉えられていた

まずはこれまでの探求のことを念頭に置きつつ、次のような問いを立てることから議論を始めてみることにします。

問い:
ハイデガーは1927年に出版された『存在と時間』において、なぜ「決意性=実存の本来的なあり方」のモメントを究明しなければならなかったのか?

この点に関して、議論を二点に分けて整理してみます。

「存在の意味への問い」を問うという課題を提起する『存在と時間』の探求は、現存在であるところの人間の実存を問うことへと収斂してゆきます。そもそも、この書物の目指すところはすでに見たように、「ある」ことそのものの意味を根底から問い直すことにほかなりませんでした。その意味では、「ある」は必ずしも人間存在の「ある」には限定されることはなく、あらゆる存在者が存在すること、全ての「ある」ものが「ある」ことの意味が問われ直さなければならないはずですが、「ある」を「ある」として理解しつつ、「ある」へと関わり続けてゆく存在者であるところの人間は、存在問題を解明する上でも決定的な存在論的優位を持つと思われるため、この存在者のあり方をこそ問うことがまずは企てられることになりました。

「かくて基礎的存在論は、現存在[であるところの人間:引用者注]の実存論的分析論のうちにもとめられなければならない。他のすべての存在論は、その基礎的存在論からはじめて発出しうるのだ。」かくして、「現存在であるところの人間とは、いかなる存在の仕方において存在する存在者であるのか?」という問いが『存在と時間』の主な関心を占めることになります。そして、人間とは単に「存在」するというのにとどまることなく、自らの存在を気づかい、自らの存在に不安を抱き、自らの存在を本来的な仕方で掴み取ろうと企てもするという意味で、まさしく「実存」しているのであるというのが、この書物が改めて正面から向き合うことになる、キルケゴール以降の哲学の根本テーゼであったといえます(かくして、存在問題はそれを根底から究明するに先立って、まずは「実存」の問題へと収斂してゆくことになる)。

そして、この実存論的分析論の道のりは、『存在と時間』の探求においては究極的には「決意性=『内なる呼び声』に聴き従う実存のあり方」の分析へと収斂してゆくことになりました。すなわち、人間の日常性に関する分析から、「不安」の解明を経て「死へと関わる本来的な存在」の問題へと至り、単独な現存在を引き受けてゆく人間のあり方を一歩一歩解明してゆくこの書物の道のりは、最終的には「良心」の現象を検討しながら「呼び声」の問題に行き着くことになります。人間は、自分自身の思惑さえも超えて呼びかけてくる「内なる呼び声」に聴き従うことを通して、はじめて本来的なおのれ自身として実存することになる。『存在と時間』においては、この「決意性」(あるいは「死への先駆」の現象がそこに重なり合うところの、「先駆的決意性」)こそが、そこから「時間性」の問題に解明がもたされ、存在問題そのものの解明へも繋がることになるはずの決定的なモメントにほかならないのであるという仕方で議論が進められてゆくことになります。

「実存の本来的生起」の問題へ

論点:
哲学の探求なるものは、必ずどこかで「いかに生きるべきか?」という問いを問うことになるのではないか?

アウグスティヌスは『告白』第八巻第一章において、次のように言っています。

『告白』第八巻第一章:
「しかしわたしは、もうこの世であくせくするのがいやになっていた。わたしの欲望は、もはや以前のように名誉や利得の希望にもえて、あのように重い隷属の重荷を負おうとしなかったから、それはたえがたい苦痛であった……。」

「ミラノの見神」体験を通して〈ある〉の神秘に目覚めた後にアウグスティヌスが向き合うことになったのは、「わたしは、たった一度限りのわたしの実存をいかにすべきか?」という問題に他なりませんでした。上の箇所で語られているように、真理の探究を経て、彼は以前には追い求めていたはずの名誉や利得にはもはや魅力を感じなくなっていましたが、自分自身の「内なる呼び声」に従って生き方そのものを変えることまではできず、絶望を経験しつつ、大いに悩み苦しむことになります。アウグスティヌスが〈ある〉からの呼びかけに応答し、探求の道のりを歩み通すためには、演劇的かつパトス的な「回心」の出来事が必要だったのであって、この「回心」の出来事の核心とはまさしく、自分自身の心において、自分自身の思惑をも超えて呼びかけてくる「呼び声」に聴き従うようになることに他ならなかったといえます(cf. ここにはまさしく、『存在と時間』における「決意性」のモメントが明確に姿を見せている)。

ハイデガーとアウグスティヌスのケースを重ね合わせてみることから改めて見えてくるのは、2023年の現在において存在問題を根底から問い直そうとしている私たちにとっても、「実存の本来的生起」の問題を提起することは不可欠の課題に他ならないということなのではないだろうか。

「『ある』の根源的な意味は、どこにあるのか。」哲学の問いとは、その本質からして外から「客観的な」仕方で問うというわけにはゆかず、むしろ、問いを問う人間が、その問いを問うことに向かって自らの実存そのものを整えてゆくことを要請するのではないか。「他の誰でもない一人の人間であるところのわたしは、いかに生きるべきか?」という問いは、哲学の営みから決して除き去ることができない。その問いは、探求の道を歩む人間のもとに繰り返し回帰してきて、「あなたはいかに生きるのか?」という問いかけをもって、彼あるいは彼女を問いたださずにはおかないものなのではないか。「実存の本来的生起」の問題は哲学の営みそのものの不可欠の課題として、思索する人間に、自分自身の「生きることの意味」そのものを探し求めるように要請し続けずにはおかないもののように思われるのである。かくして、「存在の意味への問い」を問うことは、「実存の本来的生起」の問題を根底まで掘り下げることを要求せずにはおかないのであって、この意味からすると、同時代人たちに対して「善き生」への気づかいを説き続けたソクラテスのような人の生きざまが哲学の歴史の始まりの決定的な時期に刻まれていることは、決して単なる偶然の一致ではないと言うこともできるのかもしれません。

【おわりに】

「決意性は[…]ひとり気づかいのうちで気づかわれ、気づかいとして可能であるような、気づかいそのものの本来的なありかたにほかならない」と、1927年時点におけるハイデガーは自らの著書に書きつけていました。絶望の苦しみを通して自分自身が生きることそのもののあり方を気づかい、実存の本来的なあり方へとたどり着くという出来事は、どのようにして生起するのだろうか。私たちとしては、これから『告白』におけるアウグスティヌスの探求の道のりをたどり直しつつ、この問題を追ってみることにしたいと思います。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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