【断片から見た世界】『告白』を読む 「歴史」と「幸福」

「歴史」なるものの根源は、どこにあるのか?

私たちは『存在と時間』の議論をたどり直すことを通して、「他者たちと共に、同じ一つの時代を生きる」ということの意味がはじめてあらわになる瞬間に近づいています。

「決意性のうちには、先駆しながら瞬視の〈現〉へとみずからを伝承することがふくまれている。このように伝承することを、私たちは命運と名づける。命運に運命もまたもとづいており、その運命のもとでは他者たちとの共同存在における現存在の生起が解されている。命運的な運命は反復にあって明示的に開示されうるけれども、それは、運命が受けつがれた遺産に留め金でつながれていることにかんしてなのである。反復することによって、現存在にとってその固有な歴史がはじめてあらわとなる……。」

「歴史性」をめぐる私たちの考察も、そろそろ大詰めに差しかかりつつあります。今回の記事では、「歴史」なるものの根源という問題にアプローチしてみることにします。

「歴史」はその根を本質からして、「将来」のなかに有している

ハイデガーは『存在と時間』第74節において、次のように言っています。

『存在と時間』第74節:
「反復を私たちは、じぶんを伝承する決意性の様態としてしるしづける。この様態をつうじて現存在は明示的に命運として実存するのである。いっぽう命運が現存在の根源的な歴史性を構成するならば、歴史はその本質的な重みを過ぎ去ったもののうちに有するのではない。今日と過ぎ去ったものとの『連関』のうちに有するのでもない。現存在の将来から発現する実存の本来的な生起のうちに有するのである。歴史は現存在が存在するしかたとして、その根を本質からして将来のなかに有している……。」

この箇所で語られているのは、「歴史」とはその本質からしていわゆる「過去」にではなく、「将来」にこそ根を有する現象であるという点に他なりません。事態を、二点に分けて考察してみることにします。

現存在であるところの人間は、「可能性に関わる存在」によって規定されています。すなわち、人間とはその本質からして「わたしはいかに生きるべきなのか?」という問いに向き合い続けざるをえないような存在者なのであって、この事態のうちにこそ、人間の存在とは「実存」に他ならないという主張も根ざしています。このことは、「日常性=〈ひと〉と同じように振る舞い続けるような実存のあり方」においては差し当たり隠されているけれども、人間に語りかけてくる「良心の『内なる呼び声』」は、彼あるいは彼女をこの「実存=可能性に関わる存在」に改めて向き合わせずにはおかないのではないか。かくして、「決意性=『内なる呼び声』に聴き従う実存のあり方」は過去から受け継がれてきた「遺産」を反復することを通して、人間存在が、実存の可能性そのものに関わってゆく「将来」という時間性をも生きていることをことさらに際立たせることになります。

従って、共同存在する人間たちが同じ一つの時代を生きる「命運的な運命」の次元を分かち合うことになるのも、本質的には「将来」という時間性にこそ基づくということになるのではないだろうか。ふつう「歴史」というと、すでに過ぎ去っている「過去(既在)」の次元に焦点が当てられることが一般的であるけれども、いわゆる「過去」なるものの重要性はあくまでも、その時代を生きている人間たちが本来的な実存を生きることを可能にしてくれるところの「遺産」を手渡してくれるのが「過去」の次元に他ならないという事情に根ざしているのであってみれば、「歴史」において真に賭けられているのは「遺産」の伝承によってはじめて開かれることになる「可能性に関わる存在」に他ならないのであって、だからこそ、「歴史」なるものにおいて問われているのは常に「私たちには、いかなる生のあり方が可能であるのか?」という問いなのであるというのが、上に引用した箇所における『存在と時間』の議論の示唆するところであるものと思われます。

「歴史」と「幸福」:アウグスティヌスの『告白』が私たちに語っていること

問題提起:
人間存在が自らに固有な「歴史」を選び取るとは、自分自身が幸福に生きる可能性に賭けることでもあるのではないだろうか。

『告白』のアウグスティヌスの場合を例にとって、考えてみます。

『告白』冒頭部分より:
「人間はおのれの死の定めを身に負い、おのれの罪のしるしと『あなたが高ぶる者に逆らわれる』証拠を身にまとっている。しかも人間は、あなたの取るに足らぬ被造物でありながら、あなたをたたえようと欲する。あなたは人間を呼び起こして、あなたをほめたたえることをよろこびとされる。あなたは、わたしたちをあなたに向けて造られ、わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまでは安んじないからである……。」

「人間の生は絶えざる不安と動揺のうちに置かれているのであって、彼あるいは彼女は、絶対他者である神のもとにたどり着いてはじめて、揺らぐことのない心の平安に到達する」という見方がこの冒頭部分では提示されていますが、アウグスティヌスにとって、この見方は彼自身が行った「哲学の歴史」との格闘を通してはじめて見出されたものにほかなりませんでした。彼にとって、「神を愛し、隣人を自分自身のように愛しながら生きること」という信仰の道は、実存そのものを賭けるようにして行った哲学の探求の末にたどり着いたものだったのであって、この「信仰」という選択はいわば、古代ギリシアに始まる哲学そのものの歴史と向き合ったことの総決算として導かれたものであったといえます。そして、このことは古代という時代にあって、決して彼個人にとってのみ真実であったわけではなかったと言えるのではないか。古代の哲学がもはや「中世哲学」と呼ぶほかないものへと運命的な仕方で変容を遂げていった時代にあって、「〈神の愛〉を信じる」という実存のあり方は、哲学の営みそのものがそこへと向かってゆかざるをえなかった収束点であったと言えるのではないだろうか。

最後の点に関しては、「『存在』の問題は哲学の歴史そのものにとって、どのような意味を持つのか?」という問いとの対決を通して、はじめて十全な解明をもたらしうるであろうことは間違いなさそうです。しかし、私たちが目下向き合っている「歴史性」の問題について言うならば、上に見た『告白』の事例は、「同じ一つの時代を生きること」において賭けられているのが人間の「幸福」そのものに他ならないということを示唆していると言えるのではないだろうか。

人間が「可能性に関わる存在」を生きるとはつまるところ、人間が「将来」に向かって実存することを、従って、到達するべき「目的」に向かって実存することをも意味します。そして、到達するべきその目的とは究極的には人間自身の「幸福」にまで行き着かずにはおかないことを考慮するならば、「同じ一つの時代を生きること」において賭けられているのもまた、「私たちの『幸福』はどこにあるのか?」という問いに他ならないと言えるのではないか。人間存在が自らに固有な「歴史」を引き受け、他者たちと共に存在する存在者として「運命」の次元を生きるとき、そこには「私たちはどこに向かってゆくべきか?」という問いが必ず関わっています。人間は、宿命として自らに課せられている惨めさと苦しみとに直面しながらも、それでも隣人たちと共に「幸福」のような何物かを問い求めずにはいられないのではないだろうか。「歴史」が私たちに手渡そうとしているのは、過去の人々が彼らの実存そのものを通して見出だしていった「幸福」のかたちに他ならないものと思われるのである。このように考えてみると、これまでの歴史を通して、私たちの手元にまで手渡され続けてきたさまざまな哲学の書物もまた、そのそれぞれが各々の時代に固有な「共同存在」のあり方を通して見出していった、「生きることの意味はどこにあるのか?」という問いに対する答えの一つ一つを今に伝えるものでもあると言えるのかもしれません。

 

おわりに

「もっともわたしはわたしの告白が真実であるかいなか、その証拠をかれらに示すことはできないが、しかし愛によってその耳をわたしに向けて聞く人びとは、わたしの告白を信ずるのである」とアウグスティヌスは自らの書物について語っていましたが、生きることそのものの探求の成果と、それを同時代人たちに向かって語ったことの記録が現代にまで残されているというのは、改めて注目するに値する事実であると言えるのではないだろうか。ともあれ、私たちとしては引き続き探求を進めつつ、次回の記事で「歴史性」に関する議論には一区切りをつけることにしたいと思います。

 

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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